058『村八分対談【後編】/恒田義見・上原”ユカリ”裕』/草臥れて

そのむかし、冨士夫から
こんな手紙をもらったことがある。

『ダイナマイツ以前は、
(ルーズながらも)オレは静かで、無口で、
別にとりたてて
毒にも薬にもならない人間だったけど、
それはそれで、
すごくきれいに生きていたんだと思う。
(誰にでも“ あの頃(エデンの園) ”
っていうのがあるようにね…)
……………………
それが、村八分になって
初めて自分が育った土地を離れたんだ。
旅をし、精神的にもトリップをして、
要するに知恵の実である
“ りんご ”を食べたってわけです。』

そう綴られた冨士夫の文章には、
すこしずつ浅い夢から醒めていくような、
うつろな自己分析が書かれていた。

いきなりのカウンターカルチャーの中に身を置き、
まるで実験のように“ りんご(禁断の果実) ”を食べ、
自分ではない自分を発見した人たち。

その、めくるめく時代の流れの中に
村八分が身を置くことは、
ある意味必然だったとユカリさんは言っている。

「ちょうどウッドストックがあったしね。
アメリカのヒッピーたちが
どっとニッポンにやって来た。
それがまた、東洋思想だったりするもんだから、
京都に集まっちゃったりしてね、
京都は大変なことになっちゃった」

「そう、とにかくアメリカの
カウンター・カルチャーだよね。
ヒッピー文化もひっくるめて
ドッヒャーって来たんだ。
それで、みんなが浮かれてたんだよね」

と、恒田さんも続ける。

そのカルチャーの渦の中で、
村八分が変貌していくのだ。
チャー坊の影響力が強くなり、
その独特な世界観で周りを巻き込んでいく。

「冨士夫ちゃんだって
最初はあんな感じじゃなかった。
それが、いきなり化粧とかしだして
チャー坊の世界に入っていったんだ」

そう言うユカリさんの話を
じぃっと聞いていた恒田さんは、
ボソッと、乾いたように言った。

「僕はそれを知らないんだよ」

恒田さんがいたのは、
いうなれば山口冨士夫バンドだ。
チャー坊の存在が強くなってきているのは
感じてはいたが、
影響力とかいう前の段階だったのだ。

「もうちょっと、村八分っていう
バンドのイメージに
入り込めば良かったんだけどね」

恒田さんがほんの少し悔やむと、

「いや、僕はもう、ちょっと、入り込み過ぎて(笑)。
とにかく凄いバンドでしたね。
そう言うしかないくらい凄かった(笑)」

とユカリさんが、
その言葉を救うように続ける。

最も驚いたのは、楽器ができないのに、
バンドをやろうとするところ。
生ギターをポロロンとやっていた青ちゃんに、
いきなりベースを持たせた。
ポジションもわからずにウロウロしていると、
冨士夫がコマメに補っているのだ。

「そうそう。だからチューニングも
わかってなかったみたい。
テツ(浅田哲)もそうだよね、
ギターが弾けなかった。
だから冨士夫ちゃんがいつも
横にいて教えていたんだ」

「最後にはさ、チャー坊が
“お前、ピアノやんないか?”って言ってきたの。
エッ? ピアノ?
それじゃ、ドラムはいったい誰がやるんだろう?
なんて思ったよね。
そこら辺が全然わかんなかった(笑)」

ユカリさんがそう言って笑った。

この時点で冨士夫はダイナマイツのときと
同じ立ちポジションに立っている。
音楽がとにかく好きなのだ。
だから音楽づけになって、
それをメンバーに伝授する。
ダイナマイツの時も、
全員のパートを耳で確認して
それぞれに伝えたりしていた。
その経験があるから
楽器のできない素人でも
ステージに上げる自信があったのだろう。
練習さえすればミュージシャンになれる。
冨士夫自身が数年前までそうだったように。
ただ、こうして冨士夫が音楽に没頭するぶん、
バンドのイメージはチャー坊に委ねられた。

「あっ、思い出した。
もうひとつ聞きたかったこと。
チャー坊はさ、京都の人間にこだわってたよね。」

恒田さんが気を取り直したようにユカリさんを見た。

「メンバーですか?
ああ、そうなのかな。
京都弁で歌ってましたしね」

「俺にはそう見えたの。
京都の人間だけで
バンド作りたかったんじゃないかって」

「ああ、そうかも知れないですね。
でも、京都の人って、だいたいが
東京の人が好きなんですけどね。
京都も都(みやこ)意識ってのがありますから、
東京を意識するのかも知れないですね」

後に、青ちゃんが京都を去ると、
村八分のメンバーは、冨士夫を抜かすと
全員が京都人になった。

先に京都を去った恒田さんが
近田さんとハルヲフォンをやっているころ、
演奏をしていた銀座のハコに、
冨士夫がひょっこりと現れたという。

「ちょっとギター弾かしてくれ」って。
「あれ?冨士夫ちゃん、京都はどうしたの?」
って聞いたら、
「チャー坊が京都にこだわり過ぎでさぁ、
やってられねぇんだよ」って。
「村八分もやめちまったよ」
そう言いながら、
なんだかんだ話しまくって、
最後はメシ喰って帰っていったのだとか。

「冨士夫はピュアだからね、
村八分で変わっちゃった冨士夫を見ると
信じられない気持ちになる」

そう恒田さんが嘆き混じりに言うと、

「そう、気持ちが純粋だからね」

と、ユカリさん。

「ウブな人」

「だから、逆に染まりやすいっていうか、
そういう人ですよね」

冨士夫にしても自分の中で、
いろんな葛藤があったんだと思う。
とつなげながら、
ユカリさんは、思いついたように言った。

「だけど、冨士夫ちゃんは思い込みが
いっぱいありますからね。
僕なんか、村八分のころ、
彼女の家に母親と一緒に
住んでいたことになってる(笑)。
住んでねぇよ!ってね(笑)」

「それなら、まだいいよ。
俺なんか思いっきりチャー坊に殴られて、
ぶっ飛んで、どっか行っちゃった
くらいのこと書かれてるんだもん。
ビックリしちゃったよ」

「もう、ぜんぜん、なにがなんだか。
冨士夫ちゃんの思い込みで書いているから」

「それ含めて冨士夫なんだよね」

「そうそう、ジョーさん(ジョー山中)のことを、
“ あいつはパーマかけてるから ”なんて言っちゃって(笑)」

(一同爆笑)

「音楽だけじゃなく、
面白い話をするためにも
努力してるんだね、冨士夫は」

「話にひねりが入って、
山盛りになるってところが凄いんです(笑)」

(再び、一同大爆笑)

「ところで、僕らのころは、
村八分がアムステルダムで
レコーディングするんだって、
でっかい話があったんだけど、
あれはどうなった?」

改めて恒田さんが聞いた。

「それは知らないなぁ」
と、ユカリさんは呟きながら、

「でも、エレックに全員で乗り込んだんです。
全員で行くっていうのが凄いよね。
表参道のケヤキっていう喫茶店だったんだけど、
そこでエレックの偉い人を待ってるわけ。
社長なのか何なのか僕は知らないんだけど、
その偉い人が現れると、
いきなりチャー坊が“ 何百万出してくれ ”
って話をするわけなんです」

「いきなりかい!?
当時だからな。
何百万っていってもケタが違うよな。
で? どうだったの?」

「結局、ダメだったんですけどね(笑)
いつも、いきなりなんですよ、チャー坊は。
その時も、いきなり「行くぞ」って、
全員で行くんだけど、
僕なんかはいつも訳がわかんないんだよね」

「チャー坊しだいなんだね」

「そうなんです。
毎日、だらだらしているんだけど、
いきなり、朝起こされて、
「今日、大阪行くから」とか言われて、
「スタジオ借りるから」
とか言われて録ったのが、あの『草臥れて』。
あれは、青ちゃんの友達がスタジオを持ってて、
急に使えることになったんだろうけど。
何しろ朝起きて、いきなりの出来事が多過ぎる(笑)」

バンドはチャー坊が仕切っていた。
ユカリさんは
「僕たちは、どうやって喰ってたんだろう?」
って不思議がっていたが、
その裏ではチャー坊がリアルな思いをしていたのだ。
ステファニー(チャー坊の奥さん)の稼いだお金が
バンドの生活費になっていたのである。

チャー坊の影響力が強くなり、
その世界に周りが引っ張られていくのが解る。
テンガローハットを冠って
カントリーだった、よっチャン(加藤義明)が、
緑のズボンを履いてベースを弾いている姿を見て、
ユカリさんは本当に驚いたのだとか。
温和だったテッちゃんでさえ、
村八分風なコワモテに変貌していったのだ。

チャー坊は、とにかく行き当たりバッタリに
喧嘩をふっかけて歩いたという。
バンドの仲間にはしなかったが、
出会ったミュージシャン、関係者、
そして客までもが、その相手になった。

「俺は、一度だけユカリさんが演ってる
村八分のステージを見たことがあるんだ」

そう恒田さんが言った。

それは、´71年の野音に出た
村八分のステージのことである。

「3曲で止めちゃったやつですね(笑)」
とユカリさんが答える。

「(大笑)ああ、そうそう。
まさか、まだ“ ヤってんのか(禁断の実を) ”って、
近田と一緒に笑って帰った覚えがある」

そう言う恒田さんが、

「でもさ、あのときの村八分が最高だったのかもな」

と、言葉を重ねた。

それは、まさに時代とのタイミング。
これが村八分なんだっていっても
いいほどのステージだったという。
チャー坊は弾けてるし、冨士夫のギターも良かった。
何しろ、出て来るところからしてオーラがあったのだとか。

「メンバー全員、白装束でね」と、ユカリさん。

「そう、実に印象的だったよ、
3曲っていうのは何なんだけどさ(笑)」

「3曲しかもたなかったんです。
気合いも、“ 何もかも ”入ってたから(笑)」

…………………………………………

さて、ここで冒頭の冨士夫の手紙を
振り返ってみようと思う。
知恵の実である“ りんご ”の一節には、
こんな続き話が綴られている。

『(りんごを食した結果)
知ったのが、他人と自分とのギャップであり、
自分と自分の心の間のギャップであり、
日常とステージとのギャップでもあったわけ。
(これは半ば意図していたけど…)
そこからが、全ての始まりで、
ドラッグ、暴力、セックス、女、ロックンロールと、
お決まりの混乱の渦に巻かれて行ったんだ。
そして、率先してタブーを犯し、
まるで一枚いちまい剥ぐように
世の中に対しての挑戦もした。
そりゃあ、本当にいろいろとやったんだ。
だけど、人の能力の違いや、
運命とも思える違いを見るにつけ、
世の中を“ よじれるもの ”として
見るようにもなっていったのです。
自らを村八分と息巻いて、
コクトーの小説『恐るべき子供たち』同様に
メディアで取り上げられ、
どんどんとドロドロとした深刻な毎日で、
それでいて能天気な生き方をしているうちに、
度々、自分を省みることはあっても、
勇気や判断力や決断力に欠けていて、
そうするうちに、自分の本心と
それら全ての状況とのギャップが
最も埋めがたいものになっていったんだ。

だから、ハッキリいって、
狂気の世界に住んでいたも同然なのですが、
恥をかくことや、面子を失うことや、
とにかく、カッコワルいことは立場上
どうしてもできなかったわけで、
自分の中でも葛藤していたわけなんだ。
それこそ、大格闘の毎日を送って、
すったもんだ、エイコラと、
そりゃあ凄かったんだよ。』

当時、“ 禁断の果実と村八分 ”に関して、
冨士夫はそう手紙で説明してくれた。

…………………………………………

恒田さんには、
フレンドリーな冨士夫と出発した
村八分への憶いがあり、
ユカリさんには、
チャー坊が魔法を仕掛けていく、
村八分の事実がある。

アメリカでほんまもんのヒッピーや
カルチャーの匂いを身にまとって、
みんなの前で踊って見せたのがチャー坊なら、
ダイナマイツの頃からの豊かな音楽性で、
素人をいきなりステージに上げるごとく、
パンクしたのが冨士夫だった。

確かに、人の能力の違いや、
運命には様々な違いをがある。
だけど、それは、たまたま、である。
全てはたまたまの繰り返しなのだ。

「ほんと、人との出会いって面白いよね。
僕らみたいにね、50年近く経って
初めて話す出会いもある」

そう恒田さんが言うと、

「そうですね、いろんなところで会ってたのに、
一言も話したことがなかったですからね」

と、ユカリさんが応え、
何かを思い出したように続けた。

「そういえば、村八分のドラマーって、
変わるときは次のドラマーに会ってるんです。
実は、僕もカントに会ってる。
気がついたら、カントがドラムに座ってて、
赤い唇して眉毛がないカント(笑)。
何故かそれを今、思い出しました……」

(2016/10/06 都立大学前)

PS/
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