068『本年もよろしくお願い致します』 PAUL McCARTNEY MACCA ARCHIVES 1990 VOL.4 Japan

もう、年もすっかり明けてしまいましたが、
改めて、新年おめでとうございます。

今年も時は早く過ぎるのでしょうか?
デジタルな時間や情報に負けてたまるか!?…っと、
わざとのんびりアナログ気取りで構えてみても、
根が本当にアナログなので、
ただの怠け者になってしまいます。

なんて、焦ってるわけでもないのですが、
なんとなく落ち着かない世の中ですね。
こんな時は時空をさかのぼって、
遥かなるアナログ時代に舞い戻ってみたりして…。

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そこは、よもヤバ年で1990年の3月。
前々号の続きとなります。
ストーンズを観たところからです。
それでは……

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ローリング・ストーンズを観たと思ったら、
追うようにポール・マッカートニーが来日した。
公演日程は3月3日から13日まで。
すべて東京ドームで行われるという。
ストーンズ公演はポールのための
リサーチを兼ねてたんじゃねぇの?
なぁんてね、そっくりの来日公演プランだった。

僕は3月7日の水曜に観に行っている。
冨士夫がエミリとタイに
飛び立った日だからよく憶えている。
二人は、この日から18日まで
約10日間の休日をとっているのだ。
サムイ島でリフレッシュしてくるという。
だけど、少し心配だった。
なにしろ、アメリカとジャマイカに
行ってきたばかりなのだ。
それも冨士夫にとっては初の海外渡航。
いきなりのカルチャーショックの連続に、
果たして冨士夫の妙に繊細なヒューズは
持ちこたえられるのか?
気が気でなかった。

いっぽう、カズはハワイに行ったきりだ。
シスコから誰のサポートもなく
一人でハワイに飛ばせたのはワルかったが、
プライベートな休暇なのである。
しかも、この時点でひと月は経っている。
結構長いバカンスではないか。
カズは見かけによらず、呑気なのかも知れない。

青ちゃんはこのとき新婚だった。
2年目だっただろうか?
奥さんであるミホのお腹にはミドリちゃんがいた。
それこそ何にも捕われずに、
精神だけはパンクだった青ちゃんの
ここは人生の正念場だったのだと思う。

さて、佐瀬は何をしていたんだろう?
喧嘩友達のカズにも会えず、
同じストリートに住んでいる冨士夫も日本に居ない。
そういえば、たまらず、
新婚の青木家に寄ったって話を聞いた気がする。
デカイ図体をした奴ほど、淋しかり屋なのだ。
口べたな輩ほど愛おしい。

つまり、バンドは休みに入っていたというワケ。
アルバム発売ツアーの前の
つかの間の自由だったのだ。

このころ、東京はめまぐるしく変化していた。
バブル経済は崩れ始めていて、
一部の株は暴落していたが、
まだまだ、オイラ庶民たちには
なんのこっちゃか解らなかった。

このタイミングでたくさんの人と会うことにした。
バンドがオフなのでちょうどいい。
携帯がない時代だったので、
事務所の電話でアポを取り、
テレフォンカードを購入して
行く先々の公衆電話でその先をつなげる。
クライアントに出向き用件が終了すると、

「電話一本お借りしてもよろしいですか?」
と、その会社のデスクにある電話から、
「今から戻るけど何か入ってる?」
と自社にかけるのが通例なのだった。

今とは大変な違いである。
打ち合わせには喫茶店をよく利用した。
連絡が必要なときなどは、
その喫茶店の電話番号を相手に教えておいて、
わざわざ店に取り次いでもらったものである。
だから、どこにでも喫茶店があった。
誰にでも自分好みの店があり、
そこに誰かを連れて行くのが
楽しみだったりもしたものだ。

ちなみに、NTTドコモができるのは´92年。
AUは2000年スタートだから、
携帯そのものが一般的になるのは
´90年代も後期になってからである。

だから、このときはまだまだアナログ社会。

一度、東芝EMIの社内廊下で
石坂取締役が弁当箱みたいに大きな携帯で
話しながらすれちがったことがある。

「おい、弁当箱に話しかけてるぞ」
冨士夫が大真面目に言った。
それが、僕らの見た初めての携帯電話だった。
まるでジャングルを冒険している探検隊の持つ
トランシーバーのようなイメージ。

得意気に社内を探検している石坂取締役が、
なんか、ちょっと面白かった。

打ち合わせのために当然電車に乗るのだが、
東京は急速に幾つもの地下鉄ができていて、
何がどうつながっているのかよく解らない。
ビジネスノートにある路線図を眺めて
目的地までのルートを探ったりした。

´90年当時は駅の改札口がまだ無人化されておらず、
キップ切りの駅員がカシャカシャと
得意気に切符を切っている。
ただ、国鉄が民営化されJRになった´88年あたりから、
駅員の愛想が妙によくなった記憶がある。

「おはようございます」とか言うのだ。
朝の改札を抜けるときに。
“あれだけ無愛想だった駅員が”である。
驚いて二度見してしまった。
こんなことなら警察も民営化して欲しいと思ったものだ。

「いつもお世話になります。
すみませんが、逮捕してもよろしいですか?」

とか、丁寧に言われれば
コチラも気分がいい、って、それはないか!?

バンドが休みの間の営業といっても、
結局は音楽関係かデザイン関係になっちまう。
代わり映えしないのだ。

「電話じゃ、なんだから」って、
顔を見て確認するのが
仕事の常識だって教えられた時代。

どれだけの人に会い、
どれだけのお茶を飲み、
どんな酒が呑めるかで、
仕事の質も量も違ってくる。

だから、何かとレコード会社に出向いた。
行きゃあ、呑みに行く事となる。
ついつい度を越して電車がなくなっても、
夜中のタクシーなんかつかまらない。
長蛇の列に何時間も並んでいるのも馬鹿バカしいので、
深夜の呑み屋をハシゴするハメになる。

気がつくと新大久保から新宿までの、
線路わきの土手で寝転んでたりしたのを思い出す。

金は天下の回りもの、だから止めちゃいけないんだ。
そんな合い言葉があったような気がする。
いや、遊ぶための言い訳だったのかも知れない。
アナログ時代の最後の喘ぎだったのだ。

そして、僕らはいま、過剰な情報の中で喘いでいる。
デジタル化された情報量は、
2013年の4兆4千億ギガバイトから、
2020年には、実に10倍の44兆ギガバイトになるという。

こうなったら、もう立ち止まることなんかできやしない。
人の顔を見て話す時間も惜しいし、
電話さえ記号化された通信手段に委ねたくなるのだ。

とにかくあらゆる情報が欲しい。
身近になった見知らぬ世界の友人たちが、
たった今、何をしているのかが気がかりなのである。
そうやって爆発していく情報量は、
シェアされながら新たなる情報の渦を作っていく。

情報の寿命はこれからも短くなっていくのだろう。
無用になるスピードが増していくからである。

「冗談じゃないぜ!」
冨士夫が生きてたら、取り敢えず吠えるだろう。

僕だってそうだ。
人類がこれまで経験したことのない
情報量に立ち向かうつもりもないし、
巻き込まれる術も無い。

しかし、どうにも気になってしまうのだ。
のんびりと本を読み、
公園に出てスケッチでもしようと思うのだが、
ついついデジタルな世界が気になり、
そこで何時間も埋没してしまう。

何もしないで何かを想像することが難しい時代。
退屈な時間の中でうたた寝をする得意技も、
最近ではすっかり使っていない気がする。

新年を迎えて想う。
今年こそは情報に流されず、アナログに生きるぞ、って。

だけど、根が本当にアナログなので、
ただの怠け者になってしまう。

“それでもいいのだ”

そう想う想像力が必要なのかも知れない。

本年もよろしくお願い致します。

(1990年3月〜今)

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