073『呑んべえ親父』Rock Me

たまには身内の話をしてもいいだろうか。

ウチの親父は中学の教師だった。
社会科を教えていたのだが、
すンごい飲んべえだった。
ほとんどアル中だったのだろう。
朝から手が震えているのだ。
だから、少しばかり“グビッ”と飲む。
すると震えはおさまった。

そのくせ、“真面目”ってのが好きだった。
いつも「真面目にしろ」と言う。
親父が区の生活指導員だったとき、
警察と連れ立ってワルガキ共の補導をしていた。
街の繁華街や遊び場に出向いていたのである。

親子だから縁があるのだろう。
僕が中1のとき学校をふけて、
豊島園でローラースケートをしていたら、
いきなり補導員たちが入って来た。
その中に今朝会ったばかりの親父がいて、
なんともいえないまん丸な目をして、
ひょっとこのような口をしながら寄って来た。

「ここで何してるんだ、お前ワ!」

「なにって、スケート……」

「いいから、アッチに行け!」

そう言って、子供を逃がすひょっとこ親父。
仲間は“きったねぇなぁ”とか言ってたが、
僕はけっこう嬉しかった。

その晩、家で会った時、
再びひょっとこ口で、
「真面目にしろ」と、ひと言。
ただ、それ以上はなんにも言わなかった。

むかしの先生って、
妙に青春ドラマみたいなところがあって、
面と向かって不良と顔を突き合わせたりもするくせに、
現実はどうもつじつまが合わない。
それは僕のせいでもあるのだが、
親父もそういったようなことをしていた気がする。

そんな親父は定期的にS学園を訪れていた。
S学園というのは、
地元にある児童擁護施設である。
事情のある子供たちが
預けられているところなのだ

僕はソコにしょっちゅう連れて行かれた。
ウチは共稼ぎだったので、
親父が仕方なく幼い僕を連れ歩いていたのだろう。

親父が用を済ましているあいだ、
僕は学園にある中庭で、
一人遊びをすることになる。
しばらくは蟻をつぶしたりして
陽気に遊んでいるのだが、
終いには何もすることがなくなって、
死んだふりをすることにした。

地面に仰向けに寝て、
薄目を開けて空を見ているのだ。
すると、学園の兄さんたちが寄って来る。

「これは、自殺かな?他殺かな?」

そう言われて跳ね起きたのを憶えている。
かまってもらえるのが嬉しかったからだ。
それ以来、学園に行けば、
兄さんたちが寄ってたかって遊んでくれた。

親父は学園にいるワルガキ共の
生活指導でもしていたのだろう。
どのくらいの期間通っていたのか
自分が幼かったので見当もつかないが、
けっこう愉しかったことだけは確かだ。

…………………………………………

あっという間に時が経ち、
家庭を持った僕は北鎌倉に移り住んでいた。
そこに冨士夫たちの登場となるのだが、
相変わらず親父の住む実家にも帰っていた。

「真面目にやってるか?」

と聞かれるたびに言葉というのは
すり込まれていく。
生活を共にしていた冨士夫たちの
自由な日常が羨ましくもあったが、
会社を辞めてまで自由に振る舞える自信がなかった。
その頃は、まだまだ(真面目に)会社に行くことが、
自分には合っている気がしたのだ。

しかし、日常の色合いは、
だんだんと冨士夫の世界に染まっていく。
彼がとても良い人だったこともあるが、
そんなことより、
ステージでギターを弾く冨士夫の姿を見て、
心底、ブッ飛んでんでしまったのだ。

´82年の12月・法政の学館ホールで
フールズと冨士夫が一緒にやったステージの後、
僕はマネージメントを買って出た。

冨士夫にとってはよくある話だったのだろう。
「トシ、よーく、考えな」
って感じで、軽くいなしていたのだろうが、
その直後にコチラの事情が変わってきたのだ。

暮れも押し迫ったころ、
おふくろから電話がかかってきた。

“親父が癌で、余命2ヵ月”だと言う。

あわてて引っ越すことにした。
北鎌倉から練馬に舞い戻ることにしたのだ。
北鎌倉は気に入っていたのだが仕方がない。
残り僅かな親父との時間の中で、
息子の真面目な姿を見せなければ、
天国でもアル中になってしまうだろう。

それと同時に冨士夫の録音バナシも起きてくる。
そうか、コレは東京に戻る流れだったんだな、
そう思うことにしたのだ。

´83年はそうやって始まった。

親父は入院し、闘病生活に入った。
同時に冨士夫は『RIDE ON!』の音作りに入り、
レコーディングや毎週末に行われる、
3ヵ月連続のライブへと突入していったのである。

それでも、僕は(真面目に)会社に行っていた。
帰りには毎日のように
親父の病院に見舞いに行き、
その足で冨士夫たちのスタジオ代を払いに
練習場所まで行っていたのを憶えている。

今思うと、ただやみくもに走っているだけの、
妙に忙しい日々だったのかも知れない。
絶望だとか、希望だとか、ロックとかが、
ごっちゃになって転がっているような毎日だった。

そんな中で、余命2ヵ月の親父は、
9ヵ月も経った秋頃、いったん退院した。
病院ではもう処置のしようがないので、
自宅療養というカタチで見放されたのであった。

それでも、親父は喜んでいた。
(実は癌の告知を本人にはしていなかった)
近所の鳥屋でチャボを2羽買い、
連れ帰って卵を生ませては、
それをロッキーのように流し飲んだりしていた。

そんなある日、
冨士夫とエミリがウチに来た。

親父を見舞いに来たのか、
ウチに置いてある機材を取りに来たのか、
今となっては憶えてないのだが、
とにかく、そこで初めて
親父と冨士夫が対面するのである。

カチンコチンに固まって、
あがりまくっている冨士夫が
親父の身体を気遣ってくれた。
それを察したのか、
親父もゆったりと話をしていた気がする。
ほんの短い間ではあったが、
想像もしなかった光景が、
目の前に映っていた。

しかしながら、親父はロックが大嫌いだった。
昔の頑固親父はみんなそうだろう。
単なる不愉快な雑音なのだ。
僕の職業(デザイナー)でさえ、
理解不能だったのだから、
ミュージシャンにいたっては、
限りなく不真面目な存在だったのだと思う。

だから、できれば親父に冨士夫を会わせたくはなかった。
“あんな奴とは付き合うな、真面目にやれ”
そう言われるにきまっている、と思っていたのだ。

冨士夫が帰ったあと、
台所でまな板に向かっている親父が聞いて来た。
(ウチの中での親父は、料理人でもあった)

「彼はハーフか? それなら、施設の育ちなのか?」
(この時代のハーフは施設出身が多い)

「うん。阿佐ヶ谷にある施設にいたって…」

すると、包丁で何やら刻んでいた手を止め、

「彼は良い奴だな」と、突然に言った。

「エッ!?」

何を急に言われたのか解らずにとまどっていると、
今度はゆっくりとコチラに向き直り、
“グビッ”っと、コップ酒をあおってから、
まるで社会科の先生のような表情で言うのだ。

「大切にしてやれ」 … と。

とんでもなく意外だった。
真意を聞こうとしたら、
ひょっとこのような顔をして
買い物に出かけてしまい、
そのままになってしまっている。

それから間もなくして親父は再入院した。
それでも、最後の最後に瞬間的に家に戻り、
酒を隠れ呑みしていたが(こりないヤツめ)、
志半ばで新たなる社会見学への旅に出た。

58歳であった。
現役の教頭だったので、
もの凄い人数の弔問客が参列する葬式になった。

その線香の煙がひと段落するころ、
カチンコチンに緊張して、
身体よりも小さな喪服を着た冨士夫が現れる。

誰に借りてきたのか、
上着が小さくてパツンパツンなのだ。
ひじは曲がらず、肩をつぼめて、
なんとも動きがぎこちない。
必要以上に丁寧な足取りで遺影の前まで行くと、
写真になってしまった親父と再会する。
そして、心から手を合わせてくれたのだった。

「わざわざ、来てくれてありがとう。
でも、普段着でよかったのに」

上半身は喪服であったが、
ズボンまでは小さくて入らなかったのだろう。
下半身は黒のGパンだったからだ。

それでも冨士夫はカチンコチンだった。
最後までロボットのように歩いて帰って行った。
そんな冨士夫の後ろ姿を見送った。
ちょうど秋晴れの夕暮れどきだった。
角にある信号と夕陽が重なっていたのを思い出す。

その下を歩く冨士夫の影が小さくなっていく。

ふと想った。
あのとき、親父は冨士夫と話している向こうに、
若き日の自分を映していたのではないだろうか。
施設に通って児童相談をする生活指導の教師。
その中の何人かは、大人になってもウチに寄っていた。

「ワルをするのは寂しいからなんだ」

そんなことを言っていたような気がする。

それならと、僕も学園の中庭を妄想してみる。
ツツジの花壇の柔らかい土の上で、
仰向けに寝て死んだふりをする。

そうして遥か遠くの空を眺めると、
まるで時間が止まっているかのように感じるのだ。

「これは、自殺かな?他殺かな?」

そう覗き込んだ学園の兄さんたち中に、
冨士夫の顔が想い浮かんだ… その瞬間に、

「大切にしてやれ」

そう言いながら、
ひょっとこ顔をして酒を呑む
親父の赤ら顔が透けて映るのだ。

(1982年〜83年)

PS.

GoodLovinProductionから、「”Rock Me”をYouTubeに上げました」
という連絡がきた。
タンブリング・ダウン時代の冨士夫たちが´84年に屋根裏で演奏した、
スリーピースでのライヴ【Tumbling Down <Vintage Vault Vol.4>限定盤CD】
のためのプロモーションなのだという。
“Rock Me”は、冨士夫が初めて一人で作った曲だ(作詞もという意味でね)。
聴いているうちに、当時のシーンがよみがえってきた。
初めてづくしのロックな世界でのドタバタシーンの中に、
ずっと重低音のように親父の闘病劇も流れていた。
逆の意味で、病室で付き添う僕の頭の中には”Rock Me”があった。
ずっと同じフレーズがリフレインしていたのである。

♪夜が明けるまで この夜が明けるまで 踊り明かそうぜ♪

逃げ場のないやり切れない日々の中で、
それはなんとも明るく響いていた。

始まりと終わりが交差する、不思議な時間だった。
想いと現実がすれ違って、ひと回りしたのだ。

親父が旅立ってひと月後、
僕は(真面目に)通っていた会社を辞めた。

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