080『オケラ長屋のダイナマイツ』恋はもうたくさん

瀬川さんのライヴがとっても良かった。

文句無く愉しかったのだ。

まったくもって申し訳なくも失礼な話なのだが、
観に行く前に想像していたのは、
内輪ノリで緊張感もなく、
明るいだけの仲間内のステージってやつ。

そう想って、
なんか部外者気分になっちまうかな、と、
ず〜っと、食わずスルーをしていたのだが、
行ってみたら意外とそんなこともなく、
スルッと楽しむことができたのだ。

なんといってもステージ上手。
エンターテインメントなのだ。
当たり前にツボを心得ているから、
本人たちが楽しみながらも、
観ている人たちの心も押さえる、
音の指圧師・瀬川バンマスの
絶妙なるステージ進行だったのだ。

何かと冨士夫風物差しで
物事を計る癖のある僕は、
どうしても緊張感のあるステージや、
ギリギリのリアル感に魅かれることが多い。

そう想い、そんなステージはないかと、
日常的になんとなく探しているのだが、
なかなか出くわすことがない。
若い世代がいいんじゃないかと、
コイワイくん(グッドラヴィン)
の後をついて歩いたりもしたが、
ど〜も、それはそれで若い内輪ノリに見える。
ステージもフロアーの客も
同じ人種に見えるシーンが多いのだ。

「ここにいるみんながミュージシャンなのか?」

そんな風に想ってしまう。
いつからそうなったのだろう?
みなさん、それなりにカッコがキマッていて、
音楽性がありテクニシャンだ。
生きるためのバランス感覚も良いので、
世間的な面倒も起こさない。
良い子だし饒舌でもあるから、
音以外での自己紹介もできたりしちゃうのである。

いつからそうなったのだろうか?

オイラたちの周りにいた
ミュージシャンたちっていえば、
いわば、人の流れが乱れるところで、
どうしようもなく溜まっていた。

彼らは、同じ顔をして同じ服を着て、
同じ時間に同じ方向へと、
急ぐことができない輩たちなのだ。

その吹きだまりだけは、
一般ピープルが避けて通るので、
隙間ができて輪になっている。
そこで歌を唄い、楽器を奏で、踊ったりするのが、
僕の知っているミュージシャンたちなのだ。

流れ行く人たちが足を止めてくれればめっけもん。
投げ銭くれたら一段高いところに乗り、
日々の流れに逆らいながらも、
わざわざ足を運んでくれる
貴重なる人波ができたところで、

「今日は、こんなに集まってくれてどーもありがとう」

とか言えるのである。

まあ、そんな成功者は滅多にいない。
つぶしがきかない人種だから、
成功しても失敗しても不安定だったりもする。

そんなんがいーのだ。
スタッフにとってはやっかいだが、
聴き手にとっては救いだったりもする。
病んでる心を癒されたり、
メチャクチャな夜を迎えても大丈夫だって、
無責任な自信を貰えるときもある。

冨士夫なんか、その中でもさらに
マイノリティな隙間に入るから、
良いときは最高なのだが、
嫌なときゃ、とことん最悪になる。
いわば、メンヘラにカリスマが合体しちゃった
最強なる存在なのである。

だから、ライヴもその繰り返しだった。
良いときは客までをも巻き込んで、
世の中をフカンに眺めることができるのだが、
悪いときはフツーに気が遠のいてくる。

そんなときも、
冨士夫が弾くギターの指先を
一心に凝視しながら、
小刻みに揺れているマニアなんかを見ると、
二三日一緒に暮らしてみて、
ご飯でもよそってあげたい気分になるのだった。

そんな冨士夫と瀬川さんが
お互いに近寄ったのは、
僕が知る限り数回しかない。
(もちろん、ダイナマイツ後の話として…)

一度目は『SO WHAT』のインタビューのとき、
TEARDROPSで頑張っている冨士夫を、
かつての先輩・バンマス・兄貴として、
あったかく励ましてくれた。

その後は、ダイナマイツの
ライヴCDの発売絡みとか、
冨士夫が瀬川さんとどこかで呑んだとか、
どこからか聞いたことがあったが、
それは、僕が冨士夫と離れていた時期の話なので、
よく知らないのだ。

そんな瀬川さんの生声を
僕自身が久し振りに聞くことになるのは、
2008年の初夏、真夜中の午前3時だった。

「カスヤ、てめえ、コノヤロ、バカヤロ!」

いきなり受話器の向こうから罵声がした。
名乗らなかったが明らかに瀬川さんだとわかった。

「瀬川さん?……ですか?」

「ほーだよ、てめぇ、ありゃあ、なんだよ!」

「ありゃあって、なんのことですか?」

「それはな、って……、説明するとだな?
って、てめえ、コノヤロ、コッチが聞いてるんだろーが、バカヤロ!」

って、ワケがわからない。
もう一度言おう、真夜中の午前3時である。
たまたま起きていたのでよかったが、
ほんとうにビックリしたのだ。

この記念すべき約18年振りの瀬川さんとの会話は、
18年振りに再発売された
『SO WHAT』の内容に関するクレームだった。
18年前は良かったことも、
年月が経つと良くなくなったりするのだ。

「削れよ、コノヤロ」

という数箇所の指摘を受け、
外が白み始めたころ受話器を置いた。

非常識な時間帯の連絡ではあったが、
不思議にアタマにはこなかった記憶がある。

それよりも、懐かしい感覚が
上まわったからかも知れない。

このころの瀬川さんは自分のバンドをやっていて、
再びバンマス人生を歩み始めていた。
削る箇所は、そこに関わるのだ。
冨士夫が瀬川バンマスと金にまつわる
ダイナマイツ時代の話を、
必要以上に面白可笑しく語ったりするもんだから、
18年前は一緒に大笑いして、
「面白れぇな、コノヤロ」って言ってた話も、

「いま、俺は、またバンドを仕切ってるんだぞ、バカヤロ」
っていう理由で削除命令が出たのだった。

「だから、その箇所を削りま〜す」

って、冨士夫に会った時に報告したら、
目をまん丸にして、

「ホントに?……わかった、惜しいけどな」

って、残念がっていた。
まったく、どこまでが本当のことなんだか?

『つまらない本当より、面白い嘘のほうが真実である』

ボブ・ディラン先生のお言葉が、
再び脳裏によみがえるのであった。

…………………………………………

さて、ステージも後半にさしかかっている。
全てが瀬川さんの想いつきで進んでいるのだろうか?
それとも、ある程度の進行リストがあるのだろうか?
それは、こちらからは読み切れない。
60・70年代のポップスからオリジナルまで、
テンポよくMCで笑いを誘いながら進んでいる。

ドラムの上原ユカリさんが愉しげにリズムを刻み、
ゲスト・ヴォーカルの金子マリさんが、
小さなタンバリンを遊ばせながらコーラスをとる。
やけに味のあるギターを弾く人だなぁ、
って想って見てみたら、
もう一本のギタリストは森園さん(森園勝敏)だった。
高校生の頃は『四人囃子』と『キングクリムゾン』を、
よく交互に聴いたものだ。

それでも、極め付きはやっぱり瀬川さんである。
14歳の時から一方的に知っている憧れの不良。
初めて見たジャケット(トンネル天国)の、
メンバーを周りにはべらせた写真が印象的だった。

「コイツが絶対に不良のリーダーだべ」

籐細工の椅子に王様のように腰掛け、
偉そうにしている瀬川さんがユニークだったのだ。

(数年後、エマニエル夫人が、
同じような椅子に座っている
映画の宣伝写真があったが…)

圧倒的に不良だったのだ。
なんてったってこびてない。
グループサウンズの中にあって、
可愛気のない代表だったのだと思う。

冨士夫からも日常的に
ダイナマイツの話を聞いていたので、
当たり前のように瀬川さんのことを
知っている気がしていたのたが、
この夜のステージを観ているうちに、
実は数回しか本人に会っていない事実に気がつく。

そして、もっと驚いたことには、
ステージを観るのは
コレが初めてだったという事実だ。
ダイナマイツも観ていない。

この日のステージ終わりに、そのダイナマイツの
『恋はもうたくさん』と『トンネル天国』を、
吉田くん(吉田博/ダイナマイツ時代のベーシスト)を
無理矢理にステージに上げて演ったとき、
やっぱり冨士夫が入った場面を想い浮かべた。

結局、冨士夫と瀬川さんは、
最後まで歯がゆい関係だったような気がする。

冨士夫にとっては生涯の先輩で、
頭の上がらない存在だったし、
瀬川さんにとっては、
伝説扱いされてしまう
扱いにくい後輩だったのだろう。

そんな2人の距離を詰めようと、
吉田くんが鳩のように行き来していたが、
想うようにいかなかった。

中2の時に聴いたトンネル天国は、
とんでもない不良だと想っていた
瀬川さんのヴォーカルと、
イギリス人だと想っていた
本場仕込みの冨士夫のギター聴きたさに、
数え切れないほどの針を落とした。

まさか、そのヴォーカルと
ギターが逆だと知るのは、
10年後のことである。

「あれ歌ってんの、オレだよ、ナイショだけどな」
(ナイショって部分はジョークのつもりなのだ)

北鎌倉の家で庭を眺めながら冨士夫がそう言った。
くゆらす煙草の煙が景色に流れていく。

村八分をよく知らなかった僕は、
ダイナマイツのイメージを冨士夫に見ていた。
そんなにロックを小難しく考えないで、
軽くポップにどんどんやっちゃえばいーのに。

そう想っていたのである。

瀬川くんが再びバンドをやリ始めて、
吉田クンが寄って、
ドラムだった野村さんが寄って、
次は冨士夫の番だったのに……。

人の心ってやつは、
いつのときも想い通りになびかないのだ。

そんなことを考えていたら、
ステージに大きなケーキが届けられた。
この日は、瀬川さん70歳の
バースディライヴだったのだ。
ロウソクの火を消し、
少し照れながら笑顔になるかつての不良。

ステージ終わりに吉田くんが声をかけてきた。

「瀬川くんに話があるんだろ?とりついでやるよ」

そんな風に、いつも気にかけてくれている
吉田くんの後について楽屋を訪ねた。
全力を出し切った感満載の瀬川さんが、
ソファに座って安堵している。

コチラに気づいた瀬川さんが、
タオルで顔をぬぐいながら、

「冨士夫は元気かい?どうしてる?」

なんて言う、いつもの挨拶は
残念ながらもうないが、

その代わりに70になりたての満面の笑みをくれた。

「インタビュー?オレの話を聞きたいって?
いいよ、連絡をくれよ」

良かった、やっと了解をもらえた。

これで、ずっと冨士夫から聞いていた、
『オケラ長屋』の物語を想い描ける。

…………………………………………

阿佐ヶ谷の北口、
バス通りというには
あまりにも細い商店街を行くと、
さらに細い路地を左に曲がったところに、
大陸からの引揚者や
ワケアリの人たちが生活する都営住宅があった。
そこは、通称『オケラ長屋』と呼ばれていた。

ザ・ダイナマイツはここから生まれた。

その細い路地の向かい側に
ある聖友ホーム(児童養護施設)から、
瀬川くん家の納戸のような
3畳間に越して来た冨士夫は、
朝っぱらバタバタとウルサイ物音で目覚めた。

「うるせえな、なんだよ」

ドアを開け、おもてを覗くと、
瀬川くんと吉田くんの母親同士が、
どっちのみそ汁が旨いかで言い争っているのだ。

…………………………………………

ほろ酔い気分で機嫌が良いときの
冨士夫が話してくれる

『オケラ長屋のダイナマイツ』物語は、

いつもここから始まるのだった。

(2017/4月14日高円寺JIROKITI)

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