082『鳥井賀句(さん)そして、ジョニー・サンダース』

冨士夫の音楽に関わり始めた頃の話。

僕は世間知らずの会社員で、
20代後半の生意気盛りだったのだと思う。
マスメディアの仕事に携わっていたので、
何か大きな勘違いでもしていたのだろう。

好きなことなら、
何でもできるような気がしていた。
日の当たる明るい方向に
背伸びした自分をかざして、
すれ違う人総てに、
自らの影を大きく見せていたのだ。

そんな´83年だったか´84年だったか、
今となってはどうでもいいくらいの遠い昔、
冨士夫から突然に頼まれ事を受けた。

「鳥井賀句に文句を言ってきてくれ」
と、言うのだ。

そう言われてもコチトラ、
皆目何の事か解らない。

「どーゆーこと?」

すると冨士夫は少しばかり口を尖らし、
真っ昼間からビールをあおって、
いい調子で説明を始めた。

「いいか、賀句はな、今、
俺たちのことを書いてやがるんだ。
それも、俺たちの承諾も無しにな。
コレは、アレだろ?
ナンかを侵害してるだろ?
だからさ、トシ、ココはなるべく
ガツ〜ンとイッチャってくれ!」

ってんで、そーゆーことならと思い、
早々に賀句さんに連絡した。
そうしたら、何て事はない。
日本のロックバンドの本を
編集しているだけだったのだ。
その中に山口冨士夫バンドもいるのだ。
ただ、それだけのことだった。

文句を言うどころではなくなって、
自己紹介をするかたちになった。

「山口冨士夫のマネージャーです」

それが、鳥井賀句さんとの
ファースト・コンタクトである。

「何やってんだよ、トシ」

文句を言うどころか、
逆に営業しちゃったので、
冨士夫はプンプン怒っていたが、
文句を言うほうがお門違いである。
気に入らないなら
本から外してもらえばいいだけのことなのだ。

「嫌ならそうするけど」

賀句さんは多少、これ見よがしに言ってきた。
なかなかにアクの強い人だ。
気をつけて接することにしよう。
どんな人物なのか?
このときはまだ正体不明だったのである。

次に賀句さんと関わったのは、
ジョニー・サンダースが再来日した´86年。

前にも書いたことがあるが、
「ジョニーが呼んでるから来てくれ」
と言われるがままに、
冨士夫をツバキハウスまで連れて行ったのだ。

しかし、このジョニー・サンダース絡みで
ぼくが知ってるのは表通りのストーリー。
実は脈々と続くうねった裏通りがあって、
ソッチのストーリーテーラーは賀句さんしかできない。
この裏通りは軽々しく紹介できる代物ではない。
今後、賀句さんが発表する本を待つ事にしよう。

とにかく、このときの縁(?)がきっかけで、
冨士夫はジョニー・サンダースと絡むようになる。
その空間にはいつも賀句さんがいた。

「だけど、どうしてそんなに
ジョニー・サンダースを意識するんだい?」

そんな、チンプンカンプンだった僕に、
サミー前田がレコードとビデオを持参して
いちからレクチャーしてくれた。

なるほど、ニューヨーク・ドールズに村八分。
その後に発表するソロ・アルバムの内容まで、
冨士夫とジョニーのイメージはオーバーラップする。
聞けば聞くほどよく似ているのだ。

その私生活でのアウトロー振りも
そっくりではないか。
なんて想いながら
ツバキハウスの楽屋を訪ねたら、
冨士夫と同じ目をしたジョニーが現れた。
少し照れてはにかむ冨士夫に、
ジョニーがどんどん迫ってくる感じだ。

「トイレニ イキタイガ、ツレテ イッテ クレナイカ、ダレカ?」

ツバキハウスの楽屋から
会場内にあるトイレに行く時には、
客の中を通って行かなければならない。
ゆえに、誰かがジョニーを
誘導して行かなければならないのだが、

「俺が連れて行ってやるよ、ジョニー」

と笑顔で言う冨士夫をみんなで押さえた。

満員の会場の中を、
「ちょっと、ごめんよ」
と冨士夫がかき分け、
その後ろを ジョニーが歩いていたら
大変なことになっていただろう。

いや、やらしてみたら面白かったのかも知れない。
若い頃は実に怖がりなのである。

その2年後、´88年に
ジョニー・サンダースは3回目の日本公演を行う。
ここら辺の冨士夫とジョニーの裏話が実に面白い。
そんじょそこらの流行り小説なんかより、
実にユニークなオチがあるのだ。
(やはり、ココでは書けません)

そこに清志郎さん(忌野清志郎)が絡んで、
コチラでは想ってもいなかった
RCの『COVERS』へとつながっていく。

この時期が冨士夫にとっては、
雪解けから新たなる世界に
つながっていく時期だった。

しかし、ジョニー・サンダースとは
この時期を最後に会えなくなってしまう。
生き急ぐ事に関しては、
どうやら冨士夫よりも彼のほうが早かったのだ。

1991年4月の来日公演直後の4月23日、
ニューオーリンズのホテルで、
薬物とアルコールの過剰摂取により旅立った。
ジョニー・サンダース、38歳であった。

今だから明かすが、
冨士夫もその頃はジョニーと同じ状態であった。
そのためにTEARDROPSは活動を休止、
そして、実質的には解散になっていく。

そして、賀句さんともその頃が最後に
疎遠になっていくのだ。
´92年ころだったか、
一度、大口広司バンドを観に来てくれて、
妙に好意的に誉めてくれた時があったが、
それを最後にしばらく会っていなかった。

2006年、冨士夫とまた出会ったとき、
TEMSAWのライヴで賀句さんとも再会した。

「また一緒にやるんだって?」

とか、言いながら、久々に話をした。

アクの強い強引なキャラクターなんだか、
得体が知れないお人好しなんだか、
よくわからないお人である。

それからは賀句さんのフェイスブックでの
愛読者でもあるので、
けっこう勝手に友達気分になっている。

アウトブレイクで観た賀句さんのバンドは、
もしかすると60年代のアムステルダムで、
こんなサイケデリックなバンドがいたのでは?
という妄想をかき立ててくれたし、
5年続いたという新宿の賀句さんのお店にも
遊びに行かせてもらった。

お店がなくなったことは
残念なことなのかもしれないが、
僕としてはむしろ、もっと書いて欲しいので、
その時間ができることに
興味を持ってしまうのだ。

ところで、あれは、いつのことだったのだろう…。

新宿だったか高円寺だったか、
冨士夫と一緒にしこたま呑んで、
中央線の最終に乗り込もうとしていたときだ。

最終近くなると、これまた電車は
ドッと乗客であふれるものである。
ホームのアナウンスがあり、
乗り込もうとした電車のドアの向こう側は、
いっぱい一杯の乗客で、
カゴから飛び出すブドウのようになっていた。

「トシ、やめようぜ!」

それを見た冨士夫が、
乗り込む寸前で叫んだ。

すると、ドアが閉まる寸前に、
向こう側を向いていた
サイババのような後頭部がコチラに振り返った。

……賀句さん、だった。

その瞬間に電車のドアが閉まり、
妙なアヤシい汗をかいた賀句さんが、
笑うともなしにドアのガラスに
顔面を押しつぶしてコチラを見ていた。

僕は軽く会釈をした。

隣で同じ光景に出くわしている冨士夫が言った。

「呑み直すか」

僕らは電車に乗るのをやめ、
再び、街中に戻ることにしたのだった。

(1983年〜最近)

PS/
ゴールデンウィークも今日で終わりです。
皆様はどのようにお過ごしでしたか?
ところで、5月6日。
昨日はチャー坊の誕生日でした。
例のごとくFBを眺めたていたら、
何日か前に、賀句さんがチャー坊にインタビューした´91年当時についての書き込みがありました。
ちょうど、前回のブログで書いたあとのシーンのチャー坊です。
ちょうどいいので、紹介させてもらっちゃおうと思っていたら、
思わず賀句さんの事を書いてしまいました。
失礼の数々、お許しくださいませ。

そして、お疲れさまでした。

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