085『後楽園ホール』/瞬間移動できたら

6月に入った。
1年の半分が過ぎようとしている。
気候も良いし、風も爽やかなので、
なんか良い気分なのだ。

これで、何か面白い考えでも湧いてくればサイコーなのだが……。

そんな想いで庭を眺めると、
春の息吹きで草木が大きく伸びをしているのが解る。
もうすぐ梅雨になるのだ。
むせ返るような夏が来る前に、
緑たちがたくさんの水分を欲しがっている。
そう思って目を移すと、
たわわに実を結んでしなだれかかっている
赤いグミの枝の向こうに、
遥か昔の初夏の景色が想い浮かぶのだった。

「ライブハウスで営業ばかりしないで、ホールコンサートもするように」

普段は何も要求してこない放任主義のハッシーが、
「それにしてもクソ暑いなぁ…」とか言いながら、
珍しく小言を伝えてきた。
二人して赤坂見附で茶を飲んだ帰り道のことである。
ちょうど強い風に何もかもが舞い上がる、
そんな初夏の中での出来事だった気がする。

ハッシーの小言の内容は、
プロモーション・ライヴについてだ。
当時の東芝EMIには、
コンサート援助金なる項目があった。
それは、平たく言うと、
CD発売記念コンサートのためのサポート資金なのだ。

さすがにメジャーの会社は違うな。
プロモーション費用まで考えてくれるなんて。
最初はそう考えていた。
しかし、よくよく内容を吟味してみたら、
な〜んてことはない、
アーティスト印税の数%が
ライヴのための資金として廻される恰好なのだ。
(プロモーション印税というんだけどね)

“ タコじゃあるまいし、自分の足を喰ってもウマかない ”

そう思い、印税の中から出すのはやめてくれと訴えたら、
他にどこから出せばよいんですか?
と、逆に聞き返された。
実にクールである。
何千、何万回も繰り返されてきたやり取りなんだろう。
こういったシステムは、
イメージを売るビジネスほどゆるぎない。

要するに“ CDがでたよ!“って、
プロモーション(コンサート/等)をするのだが、
ウチらみたいにコース外を走っているような
規格外のバンドは、あまり注目されない。

それでも、TEARDROPS/1st『らくガキ』は、
発売直後に1万5000枚を売り、
オリコンの60位くらいには顔を出した。
だから、プロモーション印税も
そこそこの金額になり、
それを目安にアルバム発売の
キャンペーン・ツアーを組むのである。

その時にライヴを行う会場は、
プロモーションも兼ねるのだから、
なるべく大きなスペースが良いに決まっている。
しかし、ウチらは、ついついリスクの少ない
ライブハウスを選択してしまうのだ。
そうすれば、チャージバックなので損することはない。

だが、と〜ぜんとして、
それをヨシとしないのがEMI。

「ちゃんとしたホール会場でのプロモーション・ライヴを組んでください」

宣伝部を中心に迫ってくる。

あげくのはてに、
キチンとしたイベンターと組めと、
RCも扱っていた某イベント会社を紹介された。

「今回の援助金は幾らですか?」

その某イベント会社は、
開口一番にそう聞いてくるのだ。
挨拶もそこそこにである。
どうやら彼の目はコチラを通り越して
はなっからEMIを見ているようだ。
(まぁ、解るような気もするが…)
金額を聞き、それに見合ったプランを立て始めた。

それが、とても早かった。
アレコレと悩んだりはしない。
新宿パワーステーションを会場に選び、
自社の持つ広告媒体を埋めていく。

『TEARDROPSライヴ・4/11新宿パワーステーション』

の広告が十数誌あった音楽雑誌の
ほぼ総てに乗っかった(媒体の大小含めてだが)。
まるで広告代理店である。

当時、TEARDROPSの集客平均動員数は200〜300であった。
新宿パワーステーションのキャパは700くらいだったので、
倍以上の客を呼び込まなければならない。

「半年間は都内でライヴをしないでください」

某イベント会社からは、そう条件づけられた。
客が割れるのを防ぐのだという。
至極ごもっともなお話なのだが、
ライヴで生計を立てているバンドには死活問題である。

TEARDROPSも基本的には
ステージのギャラが生命線。
メンバー・スタッフ総ての人件費を
給料にしてしまったので、
いやおうなしに毎月の支払いがのしかかる。

楽曲が売れて予期せぬ印税でも
入れば良いのだろうが、
そんな様子はみじんもない。
音楽以外で何かあるだろうか?
タレントのように、
役者のように、
芸術家のように、
作家のように、
…………何ひとつ、見当たらない。

誰が見ても明らかである。
ライヴの収益がないとやっていけないのだ。
それならと、援助金の成り立ちを逆手に取ることにした。
売れる楽曲を作る使命はコチラ側にあるが、
それがいかようなものであれ、
レコードを売る責任はレコード会社にある。
だから、プロモーション・ライヴには協力するが、
その代わりに派生する営業費の損失を補填して欲しい。
そういう(勝手な)主旨の要望書を
企画書としてEMIに提出したのである。

相手は法務部の責任者、ハッシーだ。
周囲の反対を押し切ってまで、
ウチらをEMIに招き入れたドキドキ感が彼にはある。
その結果、EMIからまとまった金額が
振り込まれることになった。
今後EMIから発売される作品の
アドバンス的な意味合いも含めてではあったが。

そんな理由もあり、
ライヴのできない期間を利用して、
TEARDROPSの2枚目のアルバムでの、
アメリカ、ジャマイカ/レコーディングを遂行したのであった。

だから、´90年の4月に 新宿パワーステーションで
ライヴを行うまでの約半年もの間、
TEARDROPSは都内でのライヴをしていない。
(実際は5ヵ月間だったけどね)

その結果、新宿パワーステーションのライヴは、
当日券も含めてチケットは完売。
プロモーション・ライヴは大成功に終わった。

後日、某イベント会社から送られてきた明細書は、
きれいに収支が合っていた。
チケット完売分の収入より、
制作経費及びイベント企画の手数料+広告費が上まわっており、
それをEMIの援助金が補って、
不思議なほどにプラマイゼロになっている。
(少しだけ、ウチの利益があったような気がするが…)

これには冨士夫も苦笑いだった。
結果的には半年間ライヴを行わずに、
援助金を払ったかたちで
新宿パワーステーションの
ライヴを行った恰好になる。

「トシ、こーゆーことはこれっきりにしようや」

コレ以来、僕らは大手のイベンターとは組んでいない。
ほとんどが自分たちでブッキングしていたが、
ラママの大森さんが変わりどころを組んでくれたりもしていた。

そこで、冒頭のハッシー登場とあいなる。

「ライブハウスで営業ばかりしないで、ホールコンサートもするように」

という話に立ち返るのである。

4月の新宿パワーステーションの後に、
都内近郊では、営業ノリで
500人キャパのライブハウスを
毎月のようにブッキングしていたのだが、
EMIの望むようなホール・クラスのプランではなかった。

前述のEMIに提出した企画書には、
ホール・クラスでのプロモーション・ライヴも
積極的に行う主旨を明記していたので、
ハッシーはそこをつついてきたのだった。

“ 困ったな、何か良い手はないかしら?”

そう思い悩んでいるところに、

「後楽園ホールでやってみない?」

と、セカンド・ラインの森田氏が言って来た。
(彼は後にウェイヴ関係のイベントで名を馳せている)
7月に空きが出てリーズナブルに扱えるというのだ。

1000人規模のキャパだが、ホールには違いない。
その時はもう5月も半ばを過ぎていた。
7月だと1ヵ月半しかないが、なんとかなるだろう。

「急遽、後楽園ホールを7月にやる事にしました」

得意気にハッシーの部屋を訪ねた。

「それはいくら何でも無謀だろう!」

と東京ドームと勘違いしてうろたえる部長に、
ボクシングやプロレスをやる会場の方だと説明し、
納得の飲み会へと移行するのであった。
(なんだかんだと、いつも呑んでいるのです)

1990年7月11日水曜日、
TEARDROPS『後楽園ホール』
アルバム『Mixin LOVE』のための
プロモーション・コンサートである。

設営費用の節約の意味合もあったが、
演奏スペースを広くとることにより、
キャパを800程度に抑えることにした。
そうすれば、大きな階段教室で
ライヴをやっているかのような
ちょっとしたギミック感も味わえる。

心配した客の動員のほうも、
さすがに満杯とはいかなかったが、
8割方シートが埋まり、
なんとか恰好を付けることができたのだ。
突然の発表にも駆けつけてくれる
TEARDROPSのオーディエンスには、
本当に感謝する想いだったのだ。

…………………………………………

そんな事を思い出しながら、
例のごとくハイボール片手に、
6月に入った夕暮れの庭を眺めてみる。

今にも降り出しそうな湿った空気に、
草木の緑がザワついているかのようだ。
たわわになったグミの枝にいたハッシーの幻影は、
今はもう見えなくなってしまっていた。

いろいろと思い出し、
改めて手帳を見返して気がついたことがある。
某イベンターの指示で半年間ライヴを休み、
音楽雑誌の広告媒体を駆使して実現した
パワーステーションでのプロモーション・ライヴは、
結果的に客の動員数を一気に倍に引き上げた。

実は、その時の収益の無さや困難な過程が
ずっと悪印象になって残っていたのだが、
考えてみたら、その時間を使って
海外録音にも行けたし、
一気に倍に増えたオーディエンスは、
そのままの数字でライヴに定着したのであった。

それで良かったのだ。
目の前ばかり見ていては
何も変わらないという教訓である。

「その節はどうもありがとうございました」

今さらながらに、そう感謝して、

ひと雨来る前に
もう一杯だけ飲もうと思うのであった。

(1990/7〜今)

PS/
『後楽園ホール』の映像は、
TEARDROPSのDVDでも確認できます。
TEARDROPS Special Edition(DVD)
https://goodlovin.stores.jp/

 

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