097 『シーナ&ザ・ロケッツ/You May Dream』

とっても若い頃、
勤めていた会社が芝浦にあった。
芝浦って、今となっては、
なんだかシャレっぽい地域で、
高層マンションやらなんだかんだと
ハイソなイメージさえあるのだけれど、
当時は、ただの倉庫街だったのだ。

田町駅の芝浦口を降りると、
殺風景な中に一本の直線道路が走っていた。
駅前通りって、
普通は商店街になっているものなのだが、
開発前の芝浦口は見事にな〜んもなかった。

「こりゃあ、エラい処に来ちまったぞ」

勤めている地域のオシャレ感を求める年頃としては、
なんだか、少しばかり不満だった気がする。
それでも駅から進んだ最初の交差点に
アルファ・レコードのビルがあった。
通っていた会社は、
次の交差点を右折した所にあったから、
通り際にミュージシャンたちを見かけたりしたのだ。

ちょうどYMOのヒットにより、
アルファ・レコードの存在が世に出た頃である。

「芝浦もまんざらでもねぇな」

軽薄な性格を自覚する身としては、
会う友達ごとに「アルファ・レコードがあってね」
なんて、会社の所在を説明していた憶えがある。

そんな、社会人としての自分を自覚し始めたころ、

「トシ、ちょっと金貸してくれよ」

な〜んて、そんな芝浦くんだりまで、
冨士夫が金を借りに来た事がある。
そのときの冨士夫は
北鎌倉の我が家に居候していたので、
今朝、会ったばかりなのにだ。

「なんで家で言わないんだよぅ」

と、当然のごとく問いかける。

「家じゃ言えなかったんだよぅ」

田町駅前の喫茶店で、
冨士夫が頭をくしゃくしゃにかきむしりながら、
申し訳なさそうに笑った。

「1万しか貸せないよ」

高給取りじゃないので持ち金が少ない。
男は一歩仕事に出たら何があるか解らない。
少なくとも2万は持ち歩いて、
急な付き合いなどに備えるのが常識なのだ。
な〜んてね、残念だがそうはイカのナントカである。
1万を貸すと昼飯は菓子パンになるレベルなのだ。

“ まっ、いっか。いざとなったら、誰かにせびるべ ”

そう、自分に言いきかせて、
目の前で妙に人懐っこい
顔つきになっている伝説のギタリストに、
三つ折りにしてしまっていた壱万円札を渡した。

「大事に使ってくれよ、世間知らずなんだから」

「もちろんだよ」

突然に強気になった冨士夫は、
その解り易い性格のスイッチが入ったように雄弁になった。

「ところで、そこにアルファ・レコードがあんだろ、誰か見かけたりしたか?」

「いろいろ見かけるけど、よく解んないな、だけど、そうそう、シーナ&ロケッツの2人がよく来てるよ」

レコーディングでもしてたのか、
鮎川さんとシーナは、この頃しょっちゅう
アルファ・レコードの前で見かけていたのだ。

「“ユー・メイ・ドリーム”だな。急に売れたもんな」

「知り合い?」

「そりゃあ、知ってるよ。話したことはないけどな」
(そーゆーのを知り合いとは呼ばない)

この時期の冨士夫は音楽をやめていた。
だから1%の毒気もない目を細めて笑うと、
穏やかな表情で言ったものだ。

「まあ、会う事もないだろうがな」

そう言って、サッ!と、
テーブルにあった伝票を持って
立ち上がった冨士夫は、

「ここは俺が出しておくよ」

と、さっそうとレジに向かう。
その手には伝票と一緒に、
さっきまでウチにいた壱万円がつままれている。

「ありがとう、ごちそうさま」

そう言うコチラの声を背中で受け、
いかにも得意気に清算をしていた
冨士夫の後ろ姿を憶えている。

“借りた金で奢ってたら、すぐになくなっちまうんだろなぁ”

そう思いながら、
こんな事を何のとまどいもなく
やってのける冨士夫が面白かった。
金は天下の回りものなのだ。
誰が払おうがいいではないか。

ところで、「会う事もないだろ」の相手だが、
ここから約3年後に会う事になる。
前にも話したことがあるが、
鮎川さんが冨士夫にアプローチしてきたのだ。

それは、その後のインタビューなどで
お見かけした鮎川さんの言葉を借りると、
自然な成り行きにも思えたりするのだが、
冨士夫にとっては実に意外なことだったのだ。

「鮎川誠から電話がきたぜ」

冨士夫から突然にそう言われて
ビックリしたのを憶えている。
“ユー・メイ・ドリーム”のヒットで、
この時の少し前のシナロケは
それこそ子供までが知っていた。
テレビの音楽番組に出まくり、
女性ヴォーカルバンドの
先駆け的存在になっていたからである。

だから、
「テレビに出てる人だね」

って、その時の電話で
冨士夫が鮎川さんに言ったのは、
ちょっとした皮肉だったのだろう。
冨士夫は『RIDE ON!』を掲げて、
音楽活動を始めたばかりだった。
『村八分』や『裸のラリーズ』の影が
自身の中に色濃く残っている。
シナロケでメディアに出まくっている
鮎川さんとはフィールドが違うのだ。
そう言いたかったのかも知れない。

「それでどうしたの?」

「どうしたって、何が?」

「何か用があって電話してきたんじゃないの?」

「な〜んもね〜よ」

だった。
すんごいガッカリした。
それで終いである。

後から鮎川さんから聞いたのだが、
たまたま冨士夫と共通する知り合いが
鮎川さんのところに遊びに来ていて、
それで冨士夫に電話したのだとか。

“なぁ〜んだ”って感じで
コチラではサラッと行き過ぎた話になった。
しかし、当の鮎川さんにとっては、
行き当たった出来事だったのだ。

あの頃のロケッツのスタジオは渋谷にあった。
だからクロコダイルには
来やすかったんじゃないかと思う。
その電話のあと、
鮎川さんは客としてクロコに現れたのだった。
レジ近くのの出口付近で
ひっそり見ていた鮎川さんに、
コチラも一回目は声をかけそびれ
うっかり帰してしまったのだが、
その翌月のクロコのライヴだったか、
再度見に来てくれた時に声をかけたのである。

すべてはそこから始まる。

その頃、ちょうど法政大学
『ロックス・オフ』から、
「TUMBLINGS単独でライヴを演らないか」
という打診がきていた。

会場は法政大学の学館ホールである。
1000人は入るキャパに
TUMBLINGSだけでは
とうてい現実感がなかった。

そこに現れたのが鮎川さんだったのだ。

「シナロケが出演すれば成立するんじゃねぇか」

ということで、鮎川さんが冨士夫を
好いてくれているのを良いことに、
早々にお誘いをしたというわけである。

結果は快諾だった。
ロケッツのマネージャーだったNさんから
「ソチラの条件で大丈夫です」
そう言われたとき、
何だか1段階上がった気分がしていた。

世間もニューウェイブの
ピコピコサウンドからロックへと、
流れが戻って来るご時世だった。

「TUMBLINGSにも、これでやっと日が当たるのかも知れない」

ライヴハウス協会からも
閉め出された超やさぐれバンドTUMBLINGS。
高円寺にあった『BOOY』のスタジオを借り継ぎ、
ここまでやってきた甲斐があったというものだ。

サミー前田を連れ立って、
市ヶ谷界隈の電信柱に
コンサート告知を貼って
歩いたのを憶えている。

ぴあやシティロード、
その他の情報誌、音楽雑誌にも情報を流した。

あとは当日にたくさんの客が来てくれればいい。
なんたって“ユー・メイ・ドリーム”なのだ。
少しは夢を見たってバチは当たらないはず…、だった。

なのに、あろうことか、
ライヴの寸前になって、
いきなり大きなバチが
振りかぶって襲ってきたのである。

この日のステージに向けて、
頑張って頑張って頑張り過ぎた冨士夫が、
夜な夜なスタジオに通うところを、
通りかかった警察官に拉致されたのである。

なんということだ。
考えてもみなかったことだった。
(この後は普通に考えることになったが)
どうしていいのかわからぬままに、
あっという間にライヴ当日を
迎えることとなったのだ。

ワルい夢でもみている気分の中で、
冨士夫ヌキの3人だけの
TUMBLINGSの演奏が始まった。
しかし、さすがに間がもたない。
この頃の青ちゃんは、
まだ歌えてなかったのだ。

サラッと、数十分で終了してしまい
シーナ&ロケッツのステージへと
移行していったのである。

「冨士夫ちゃんどうしたの?」

と言うシーナの心配顔に、

「おなかが痛くって」

と、幼稚にごまかしたのを憶えている。

「おなかぁ?」

と、はてな顔をしながら
鮎川さんと顔を見合わせ、
全然信じてる風ではなかったが、
それ以上は訊いてこなかった。

後日、事実を報告したときに、

「わけのわかんない嘘は、言わないでね」

と、シーナに怒られた。

「おなかが痛いって何だろう?って、さんざん心配しちゃったんだから」

と言われて、信じてたんだって、
深〜く反省したものである。

しかし、良くも悪くも、このことがキッカケで、
冨士夫にも(僕にも)鮎川さんたちに対して
大きな借りができた。

この、身体にも心にもワルい
不完全燃焼をどーにかしなければならない。
僕らは裁判に対する嘆願書を作成しながら、
なんとか次の流れを作ろうとしていた。

「持ってくればいいっちゃ、書くけん」

そんな時にも、鮎川さんは積極的に署名してくれ、
逆に励ましてくれたのだった。

時が経つといろいろと見えてくることもある。

冨士夫が違うと言っていた、
鮎川さんとのフィールドの価値観は、
いったい、何だったのだろうか?
それは、音楽への取り組み方や、
それに伴う生き方のことなのかも知れない。

冨士夫が必死に考えるロック(生き方)を、
鮎川さんはサラッとかわすことができた。
言い方はわからないが、
それもまたロックンロールなのである。

冨士夫と鮎川さんは、
そうやって次のシーンへと
移ることができたように想えた。
それがなければ2人のシーンは
成立しなかっただろう。

冨士夫のロックはとっても頑固だ。
鮎川さんのロックンロールは、
それがわかっているうえで
柔軟なのかも知れない。

ここから1年間の時を経て、
いよいよ2人は音で話すこととなる。

1984年の秋、この時はまだ
何もかもが想像の中での出来事だったのだ。

それは、まるで、
“ You May Dream ”のように。

(1981年〜84年)

PS/
※伊藤耕のご冥福をお祈りいたします。
何故か、彼だけは、ずぅっと生きていくと想っていました。
残していった歌を愉しんで生きたいと想います。

【山口冨士夫とよもヤバ・スペシャルナイト】

一夜限りのスペシャルライブ&未公開秘蔵フィルム上映

鮎川誠、チコヒゲ、花田裕之、ザ・プライベーツ等豪華ゲスト陣をライブステージに迎え、ライブ&秘蔵映像上映イベントを12/8(金)下北沢GARDENにて開催致します。

フィルム上映は、1986年に渋谷ライブイン等で開催された『シーナ&ザ・ロケッツwith 山口冨士夫』の完全未公開秘蔵ライブ映像、他を予定。そこに、一夜限りのスペシャルライブとして、鮎川誠、ザ・プライベーツ等による冨士夫のカバーを含む、よもヤバステージが行われます。

12/8(金)下北沢GARDEN
Open:18:30/Start:19:00
前売 ¥4500(+1D) /当日¥5000(+1D)

【ライブ出演】

鮎川誠/THE PRIVATES/チコヒゲ/花田裕之 etc.

【フイルム上映/未公開秘蔵映像】

『1986年1月、SHEENA & THE ROKKETS with 山口冨士夫』ライブ
『1986年5月/ 山口冨士夫 &鮎川誠withチコヒゲ リハーサル』
『1997年10月/福生UZU SHEENA & THE ROKKETS(山口冨士夫飛び入りシーン)』etc.

【チケット発売】

●シーナ&ロケッツ オフィシャルチケットセンターhttp://sheena.cc/ticket

●プレイガイド一般発売
チケットぴあ (Pコード:347-800)
ローソンチケット (Lコード:70865)
イープラス受付URL:http://sort.eplus.jp/…/T1U14P0010843P006001P002241020P00300… …

 

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