111『3年目の春』TEARDROPSうまダマ

やっと、春らしくなってきた。

この時季になると僕は、
冨士夫ん家の庭を想い浮かべたりする。
風が行き交う日だまりの庭は、
想像するよりもずっとあったかいのだ。

庭先にある梅の木を眺めながら
競って伸びる草花の香りを嗅ぐ。
庭の南に面した縁側の前には
季節ごとの植物が植えられていていた。

それを愛でる冨士夫の姿を想い浮かべ、

「なんか、似合わねぇな」

と、笑ってしまったりするのだ。

「こんにちはー」

その縁側の引戸をそろっと開けながら、
中の様子を伺った。

「おぅ、トシか、よく来たね」

冨士夫はたいがい、
つけっぱなしのTVを見るともなく、
何かをしていた。
いや、何もしていなかった事の方が
多かったのかも知れない。
誰かが来たことを合図に動き始めるのだ。

冨士夫にはそんなところがあった。

「珈琲でも飲むかい?」

と言って、“よいしょっ!”
っと立ち上がると、
キッチンに行って
ドリップ珈琲を淹れてくれるのだ。

僕はたいがい、つけっぱなしのTVを
何気に眺めながら待つことになる。

ディスカバリーチャンネルや
ドキュメント番組。
それか、スポーツの実況を
見ていることが多かった気がする。

「はいよ、お待たせ」

冨士夫の機嫌が良いときは、
心を込めて淹れてくれた珈琲も
ことのほか、あったかい。

窓辺に目をやると、
春風に舞い上がる草葉のかけらと共に
日差しが揺れているのがわかる。

“日が明るいうちにやっちまおうか”
と思った。

今日は冨士夫の持っている
資料の整理に来たのである。

1983年のタンブリングスの活動時期から、
冨士夫は膨大な音源を録っている。
そのほとんどが練習テープだったり、
ライヴでの音源だったりするので、
何が何だかわからないのであるが、
それを少しずつ整理しているのだ。

僕の前にも誰かが整理したあとがある。
その続きをやっている感じなのだ。
それほどにたくさんの
音や映像のかけらが残されている。

「この押し入れにもあるんだよね」

やたらと録りまくったり、
記録することは大好きなくせに、
それを整理するのが苦手な冨士夫は、
いかにも愉しそうに伝えてきた。

身をかがめて中を見ると
手前の袋の中に
何本ものVHSテープ入っていた。
だいたいがどこかのライヴだったり、
何も書いてなかったりするのだが、
その中の1本のテープに
『11PM』という表示があったのだ。

「ちょっと、コレ、見てみようか」

ということになった。

テープのホコリを落とし
デッキにかけてみると、
ラッキーなことに再生ができた。

【1989年/平成元年/7月6日収録/7月7日放送】
とシールにある。

「七夕だったんだな」

煙草の煙をくゆらしながら、
懐かしそうに冨士夫が呟いた。

「そう、あのときは(11PMに)出るまでが大変だったよね」

見ているうちに、
当時の想いが蘇ってきた。

東芝EMIから
TEARDROPSの1st.アルバム
『らくガキ』が発売されたとき、
放送や出版メディアを中心に
様々な発売キャンペーンを行ったのだが、
その中の1本に、

「日本テレの『11PM』から出演依頼が来ていますが」

と言う宣伝部からの問い合わせがあったのだ。

当然としてTV好きの
軽いスタンスがモットーの僕としては、
即答で出演を承諾した。

何を隠そう、
僕は『11PM』が大好きだったのだ。

「パー!サバダバ、サバダバ」
なんて、スキャットによる
オープニングテーマが聴こえてくると、

「イッシッシ!」
とか笑っちゃって、

「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉と」

「朝がまるで弱い朝丘雪路です」

なんていう、
70年代の金曜イレブンの
頃からのファンなのだ。
このチャンスを見過ごすはずがない。

しかし、問題は冨士夫である。
放送メディアには
必要以上に慎重な冨士夫のことだ。
絶対に嫌がるに違いない。

それで、なんだかんだと
(へ)理屈をつけて
冨士夫を口説いた憶えがある。

【らくガキ】のプロモーションには
『11PM』のような番組が効果的なんだと、
根拠はないがアレコレとしつこく説得した。

終いには根負けした冨士夫が、

「それなら出てもいいけどさ、だけど、TVの音響はひどいからなぁ」

と、最後の難問を投げかけてきた。

これには、誘ってくれていた
『11PM』のディレクター/O氏が、

「大丈夫です。PA/音響は吾妻光良がやりますから」

という答えで切り返してきたのだ。

当時、吾妻光良さんが、
『ザ・スウィンギン・バッパーズ』を率いて、
様々な活動をしているのは
冨士夫も知っていた。
同じギタリストでもあるし、
彼の作るブルース・ジャズの
ユーモア溢れる曲は、
けっこう冨士夫の
お気に入りだったのである。

「ソレなら大丈夫か」ということになった。

吾妻光良さんが
日テレの社員で助かったのだ。
ソレが決め手で
『11PM』への出演にこぎ着けた
という感じだったから。

さて、収録が行われた日テレは、
当時はまだ麹町にあった。

「ウチの大道具に急遽作らせましたから」

とOディレクターがいう、
なんともいえない不思議な
サイケデリック加減のセットで
演奏することになった。

演奏曲は、
『ウマくだましたつもりかい』である。

♪ウマくだましたつもりかい
そうは問屋が御ろさねぇ
ウマくだましたつもりかい
ほとんどの奴らがもうわかってるぜ♪

という歌詞で始まるこの曲は、
冨士夫にとっても
ストレートな直球ソングである。

「自分たちのフィールド “インディーズ” を捨てて(東芝EMIで)やるのなら、ダサくてもいいから想いっきりメッセージのある曲を演ろうぜ」

という冨士夫の気概の表れだった。

「つまらねぇ体制をブチ壊したりするのが、ガキ共の役目だろ」

冨士夫は、この曲で
そう言いたかったのである。
それが、アルバム【らくガキ】の
テーマでもあったのだ。

平成元年の七夕の日。
昭和の年号をまだまだ
引きずったような晴れた夜に、
TEARDROPSは何の前触れも無く
『11PM』に登場した。

あまりにも突然に、
何の脈略もなしに登場したので、
あっという間に流れた
流星のようなモンだったのかも知れない。

そんな事を思い出しながら、
テープを見終えた僕らは、
一息ついて、
夕暮れ時の庭に出てみることにした。

春になってきたとはいえ、
日が陰ってくると
吹く風がまだ肌寒く感じられる。

庭の北の方に目をやると、
玉川上水の土手に並ぶ
桜並木の葉が揺れているのがわかった。

「あれは、どうだったんだろうな?」

ふと、冨士夫が呟いた。

「何が?『11PM』のこと?」

そういえば、何にもなかったのだ。
けっこうな思い切りで
『11PM』に出演してみたのだが、
内からも外からも、
大した“事”は起こらなかった。

「今度、また話がきたら、もっとよく考えてから出ような」

そう言って、
庭一面に振り散った桜の花びらを
拾う仕草をする冨士夫がいる。

“大丈夫、『11PM』はもうないから”

って言おうとしてやめた。
そんな事を言っても
何にもならないからだ。

あの頃は、冨士夫の身体の痛みも
慢性的に続いている頃だった。
季節の変わり目は
ソレがまた顕著になる。

そんな、薄い絶望感が流れる日々の中で、
体調の良いタイミングは、
宝物のような時間だったのだ。

冨士夫の淹れてくれた珈琲は、
とっくに冷めてしまったけれど、
その想いにはまだ
あったかさが残っている気がした。

そんな想いから始まる気がするのだ。

すべての妄想は、
春から始まり繰り返していくのだから。

(1989年〜2008年/春)

PS/

このブログを初めてから、
この春でちょうど丸3年目を迎えました。

つまり、3年目の春というわけです。

思い起こせば、
初めて冨士夫が我が家に
なだれ込んできたのも、
36年前の春でした。

だから、というわけでもないんだけど、
春になると妙に感慨深げになります。

そんな時に、
以前ずっと一緒に遊んでいたhiconakaが、
『11PM』の映像を、
ツイートしているのに出くわしました。

ソレを見ているうちに
つらつらと当時を思い出したので、
思わず書いてしまいました。

よって、前回の続きは次回ということで、
あしからずです。

あったかい日だまりの中で、
あったかい珈琲でも飲んで、
心まであったまったら、
ゆっくりと昼寝でもしようかと。

春は、どこまでも怠惰になれる気がします。

 

 

 

 

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