112『村八分/くたびれて』

渋谷区本町2丁目。

渋谷区とはいっても、
ほとんどが中野区か新宿区に
入り込んだようなエリアに
TEARDROPSの事務所はあった。

先日、たまたまなのだが、
30年振りに僕は
このエリアに行く機会を得た。
懐かしさもあって、
のんびりと散策しているうちに、
かつてのさまざまな
情景がよみがえってくる。

初台駅の北口、
水道道路から商店街に入ると、
かつてソコにあった
冨士夫の住まいは、
建物ごと建て替えられていた。

その時空を眺めていると、
鼻歌混じりに狭い階段を下り、
水道道路沿いの
レオ・ミュージックへと行く
冨士夫の姿が想い浮かぶ。

すると、たまにだが、
近所に住んでいた
キクさん(柴山俊之/exサンハウス)と、
角を曲がった路地で
出くわすことがあった。

買い物帰りなのか、
スーパーの袋から大根を覗かせて
自転車にまたがるキクさんは、
のほほんとした表情で
冨士夫と挨拶を交わすのだった。

「ありゃあ、きっと、今夜は煮物だぜ」

村八分の伝説的ギタリストが、
サンハウスのカリスマ的夕飯を占って、
ニタッと、していたのを思い出す。

その商店街の路地を
フラフラっと
住宅街方面に抜けて行くと、
青ちゃんの住まいがあった。

モテモテの青ちゃんが、
ライヴなのかリハなのか
なんだかわからないままに、
フラフラッと出かけたかと思うと、
深夜に酔っぱらって
帰宅する図が浮かんでくる。

♪アッチへフラフラ
コッチへフラフラ
どーせオイラはイカれた
ロックンロール

まさに青ちゃんのテーマソングである。

こだわりを持たない
着流し人生を送っていた青ちゃんが、
初めて描いた家族の色だった。

ソコに朝っぱらから
腹を空かしたオウジ(渡辺大二)が、
朝食を御馳走になりに来ているのが映る。

「大二はしょっちゅうウチでご飯を食べてたんだよ、知らなかったでしょ、トシ」

先日、久し振りに
ミホ(青ちゃんの奥さん)と呑んだら、
愉しげな思い出話に酔っていた。

当時は18歳で、
幼な顔のローディだったオウジも、
今じゃ出世して、
いっぱしにステージ照明を仕切っている。

去年12月の『よもヤバ/イベント』の時も、
ガーデンの照明をやってくれていた。
時間の流れは時に、
意外な灯りを演出してくれるものなのだ。

さて、青ちゃんの家の前で
うっかりと長居をしていると、

「トシ、青ちゃんが何処へ行ったか知らな〜い?」

とか、ミホが顔を出しそうだ。

面倒になる前に
さっさと事務所に
行っちまうことにしよう。

青ちゃんの家から
さほど離れてない距離を
フラフラっと歩いて行くと、
この界隈でも珍しいほどの
昭和レトロなアパートに行き着く。

これが、我が事務所、
青山ハイツなのであった。

壁沿いの鉄階段を
とんとんとんっと
上がって中に入ると、

「トシ、お帰り」

っと、青ちゃんがココにいた。

「ミホが探してたよ」

と言うと、

「いーんだよ、用があってきたんだからさ」

と、会話が実に単純である。

そう言いながら青ちゃんは、
事務所にある唯一の音響システム、
CDラジカセにカセットテープを入れている。

「片付けをしてたら、こんなんが出てきたんだ」

と、くわえ煙草の青ちゃんが、
再生ボタンを押した。

すると、聴き覚えのあるトーンの
ゆるーいギターが流れてきて、
ソコに気だるそうなヴォーカルが
かぶさるように聴こえてきた。

♪あるいても あるいても
はてどなく はてどなく
にぎりしめた手のひらには
あせばかり あせばかり

この音の主が、
冨士夫とチャー坊なのはすぐにわかった。
特にチャー坊の歌声は、
ライブの音源でしか
聴いたことがなかったので、
なんか妙に生々しく
響いてきた記憶がある。

「面白しれぇだろ」

『村八分』嫌いの青ちゃんが、
実に珍しい得意顔をした。

ハナっからモノに執着しない
青ちゃんなのだが、
なくす事はあっても、
捨てることもなかった。

だから、偶然に見つかったってのは、
たまたまの奇跡なのである。

さっそく冨士夫に知らせたら、
小躍りして飛んで来た。

『くたびれて』は、
なんといっても
冨士夫とチャー坊が作った
記念すべき初の曲である。
冨士夫にとっては、
何事にも代え難い
想いのこもった
作品だったのである。

この曲が録音された
1971年に想いを馳せてみよう。

メンバーはヴォーカルに
チャー坊こと柴田和志(20歳)
ギターに山口冨士夫(20歳)と浅田哲(20歳)
ベースに青木眞一(19歳)
ドラムに上原裕(17歳)である。

残念ながらユカリさんこと
上原裕さん以外は
今は別次元を浮遊しているので、
今回はユカリさんの主観で
当時を妄想してみようと思う。

当時17歳だったユカリさんは、
すでにドロップアウトを決め込んだ
早熟なミュージシャンだった。

大阪のゴーゴーホールで
ドラムを叩いているところを
チャー坊に引っ掛けられ、
『村八分』に引っぱり込まれたのであった。

「だけど、何もすることがなかった。だから、どうやって食べてたんだろ?」

って、ユカリさんは
当時を振り返る。

「僕なんか営業(ハコバン)すらしてなかったからね。基本的にはチャー坊ン家でゴロゴロしていたんだ(笑)」

その頃のチャー坊の家は5人暮らし。
チャー坊とステファニー(チャー坊の恋人)と
チャー坊の母親と冨士夫とユカリさん。

「僕は17で冨士夫ちゃんは20か21かな。いつもコタツの横には、ブラックケースのツイン(アンプ)が置いてあるんだ。335と一緒にね。それを朝起きると冨士夫ちゃんがずっと弾いているっていうのが日常。それも延々と同じフレーズばかり、ず〜っと弾いている…。僕は2階でいつも寝てたんだけど、起きて階段を下りる時は、もう冨士夫ちゃんのギターの音がしているんだよね。だいたい冨士夫ちゃんが一番早起きだったからさ」

その日常に、
いきなりチャー坊の声が響き渡る。

「「今日、大阪行くから!」とか言われてね。いきなり、ある朝起こされてさ、「スタジオ借りるから」とか言われて録ったのが、あの『くたびれて』なんだ」

段取ったのは青ちゃんの
友達だといわれている。
その人の持っていた
大阪にあるスタジオで、
『村八分』の初録音は行われた。

【どうしようかな】【のんだくれ】【くたびれて】【あやつり人形】【ドラネコ】【あっ!!】の6曲をデモ録音している。

「あの頃はさ、何しろ、朝起きてからいきなりの出来事が多過ぎるんだ。物事の進み方が速いんだろうね。あまりのスピードの速さに、戸惑う事も多かったって気がする。何もしないようで、実にさまざまな事が起きているって感じ。だから、あのときの録音もそうだよ。毎日が旅をしている中での出来事のようだったんだ」

【2016年の10月/ユカリさん(上原裕)のインタビューから】

11年前になるだろうか。
冨士夫の家で『くたびれて』の
ジャケット案を考えていた。
(前回の復刻版)

「思いっきり派手にしちまおうぜ」

と言う冨士夫と共に、
頭をくゆらしてみたのだが、
それらしき『村八分』の
写真は見当たらない。

それならと、
ちょっと無理矢理ではあったが、
モノトーンの写真に色をつけて
遊んでしまったってわけである。

まあ、それはそれで、
良かったのだと想っている。
あのときの冨士夫の気分は、
確かにあんなんだったのだ。

さて、そんなこんなで、
今回のブログを書く前に、
偶然にも、
かつての事務所の近くに行き、
懐かしさの中で
思い出に浸っていたら、
『くたびれて』CDリイシューの告知が
グッド・ラヴィンからツイートされてきた。

そんなつながりで
今回は『くたびれて』の
エピソードにしようと
思ったのだった。

こりゃあ、
気分を上げるために

「音でも流しながら書いてやるか」

と思い、
新装のジャケットを開き、
クレジットを見て
少しばかり驚いた。

録音された日は、
1971年の4月30日。
47年も前ではあるが、
実に昨日だったのである。

どうでもいいことだが、
47年前の関西地方の昨日の天気は、
曇りのち晴れであった。

僕は、
『くたびれて』を聴きながら、
ベランダの物干し場に上がり、
2018年の抜けるような青空を眺めた。

時空をも超えて、
ずーっと、続いているように
見えるこの青空は、
まるで1971年にも
つながっているように想える。

冨士夫とチャー坊が、
そして、若き日の村八分の音が、
目映い日差しの中で、
まるで、めまいのように響いている。

♪あるいては 立ちどまり
目をとじて ふりかえる
こころにしまった宝は
さみしさ ばかり

(1971年〜今)

今日もすごく良い天気です。

どなた様も、
愉しいゴールデンウィーク
後半戦をお過ごしくださいませ。

 

 

 

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