121『夏休みのお終わり』

夏の朝は蝉の声で目を覚ます。

みんみんと裏の神社から、
うるさいくらいに聞こえてくるのだ。
そこに夏風が揺らす
木々の葉音が重なって
いいかげん、寝てはいられなくなるのである。

「あっついな…」

と思ったら、
もう、昼近かった。

水を飲み、顔を洗うと、
洗面所にある洗濯機が目についたので、
そこらに溜まっている
あらゆる物を全て入れて、
コレだろうという粉と液体を注入し、
「入」「スタート」した。

チューっという水が流れ込む音の後、
カタカタと洗濯機が揺れ動き始める。
それをじいっと見ているのが、
なんだか、愉しい気がした。

居間に行き、エアコンをつけると、
手乗りインコのジンペエが
何やら騒いでいる。
水を替えてやり、エサを入れる間中、
じいっとコチラを
伺っている感じなのだ。

以前は、すぐに「だせ〜」っとばかりに、
カゴの側面に飛びついてきたのだが、
7〜8年も生きているので
すっかりとお年なのであった。
とまり木から流し目で
シレッと、世間を伺っている気がする。

「お前は、俺みたいだな!?」

顔を近づけて訊いてみた。
そのとき、“コク”っと、
首を前に倒したのは
きっと、偶然なのだろう。
鳥にはよくある動作なのだから。

そんなことをしていたら、
突然に携帯が鳴った。

「着きましたぁ」

グッドラヴィンのKくんである。
クルマで迎えに来たのだ。

今日はKくんと一緒に
エミリん家に行くのだ。
少し遅くなったが、
冨士夫の命日の線香をあげるために
羽村までドライブするのである。

「どうですか、夏休みは?」

助手席に座り
シートベルトをしていると、
せっかちなKくんが
エンジンをかけながら訊いてきた。

“ここんとこ、洗濯が割と気に入っててね”

と言うのも変なので、
家族がみんな出払って
1人でいる自由さを
どう表現しようかと考えていたら、

こちらの返答を待ち切れないKくんが、
ペラペラと自分の近況を話し始めた。

この、コミュニケーションに対して、
少しばかり突っ込み気味なKくん、
彼はグッドラヴィンという
音楽レーベルを経営している。

扱いは冨士夫やフールズから始まり、
それなりに骨っぽいバンドの音を
世に発表し続けてから20年余りが経つ。

気がつくとインディーレーベルの
老舗ともいうべき立場になっているのだ。

遠ーいむかし、
冨士夫がタンブリングスを
やり始めたころ、
ライブハウスの暗い片隅で
周囲の大人たちから離れるように
そっと覗いていた高校生がいた。

それがKくんである。

出口に近い場所で
両ポケットに手をつっこんで、
怒ったようにステージを眺めていた
足立区のパンク小僧だったのである。

何の因果で冨士夫が好きなのか?
それは僕にもわからない。

「最近も、ずっと冨士夫さんのテープを聴いてるんです」

とか言って、
ある年代の冨士夫のカセットテープを
一晩中聴いていたりする。
途方も無い時間を行き来しながら、
在りし日の冨士夫を妄想しているのだ。

Kくんの父親はナベプロから
大橋巨泉事務所までを渡り歩いた人で、
所属タレントのマネージャーから、
三輪明宏(当時は丸山明宏)さんの
付き人までを経験した苦労人。
あの『せんだみつお』さんの名付け親も
Kくんの親父さんだと聞いている。

ある日、パトカーのサイレンが
聞こえてきたかと思うと、
何十台もの赤色ランプを引き連れて、
ベロンベロンに酔っぱらった
Kくんの親父さんが帰宅した。

「どーせ酔っぱらい運転で捕まるなら、家まで辿り着いてからにしようと思ってね」

と酒臭い息を吐きながら
言ったというのだから、
昭和の豪傑はスケール感が違うのだ。

お袋さんもナベプロ出身で、
『東京ビートルズ』の
マネージャーをしていたのだとか。
(『東京ビートルズ』は冨士夫が好きだったらしい)

男尊女卑の芸能界の中にあって、
女のマネージャーを馬鹿にする
若き日の内田裕也さんと、
真っ正面からやりあった
数少ない女傑なのである。

「それじゃあ、Kくんって芸能界のサラブレッドじゃない」

と言うと、

「俺は、芸能界、関係ないっす」

と言って口を尖らす。

その返しが好きで、
毎年必ず一度は同じ話題になるのであった。

そんなKくんの近況を聞いていたら、
右手に横田基地が見えてきた。
僕らは五日市街道を走っていたのだが、
立川市を過ぎるあたりから
基地の長〜いフェンスに添って
移動することとなるのだ。

この米軍のある横田基地、
正式には横田飛行場といって、
2013年からは航空自衛隊の
司令部なども常駐するようになり、
日米両国の空軍基地となっているのだとか。

調べてみると、
米軍人とその家族や軍属合わせて、
約9000人のアメリカ人が住んでおり、
日米地位協定により、
出入国管理の手続きを必要としない。

つまり、日本ではないのである。
治外法権なのだ。
カリフォルニア州なんだという
話を聞いたことがあるが、
カリフォルニア州の扱いではあるが、
州には属さないということだそうだ。

しかしながら、
チャーター機などにより、
本国アメリカからの出入りが
自由に行われることができ、
日本国内で犯罪を犯した
アメリカ軍将兵や、
軍を掌握するアメリカ高位高官が
軍用機で出入国しても、
それが日本側に告知されない限り、
日本国政府はその事実を
知ることができないのだという。

昨年、大統領専用機で来日した
ドナルド・トランプ大統領は、
このルートを使ったため、
法的には、アメリカからの出国や
日本への入国手続きを行っていない。

このような日米のアンフェアーな
事実を再確認すると、
どうしても冨士夫の人生と
オーバーラップしてしまうのだった。

冨士夫の父親は、
この横田基地に属する
イギリス軍人だったという
ストーリーがあるのだが、
それは定かではない。

「3歳の時、母親が俺をおいて角の道を曲がっていく後ろ姿が、俺の最も古い記憶なんだ」

と冨士夫は常々言っていた。

その阿佐ヶ谷の聖友ホームに
預けられたその時の記憶が、
彼の最も古い記憶なら、
それ以前の山口冨士夫史は
ただ想像するしかないのだ。

僕は勝手に冨士夫の父親は、
中南米・カリブ海辺りにルーツを持つ
アメリカ人だと想っている。
ラテン系といってもいい。

実際の冨士夫との
アメリカやジャマイカへの渡航では、
冨士夫は機内のCAから
フランス語やスペイン語で
話しかけられていた。
それが、数少ない裏付けなのだ。

母親はとっても若くて、
まだ10代だったのかも知れない。
3歳になる冨士夫を
施設へ預けにきた頃でも、
少女に見られるような女の子。

「お母さんってどんな人だったの?」

と冨士夫が、
施設の責任者である
“おばちゃん”に訊くと、

「そんなこと、二度と訊くもんじゃありません!」

と、猛烈に叱られたのだとか。

そんな風に叱られるのが嫌で、
冨士夫は母親の面影を想い描けぬまま、
心の中に封印した。

“おばちゃん”は訊かれたく
なかったのだと想う。
それほどに冨士夫の母親は、
若かったのではないのだろうか。
母親が二度と戻って来ないことを
確信するかように、
冨士夫との未練を断ち切りたかったのだ。

その切なさから、
“おばちゃん”は冨士夫を特別扱いした。
施設の中でただ一人
寝起きを共にし、
まるで母親のように接したのである。

僕らが知っている冨士夫の優しさは、
そんな切なさの中にある。
足元を確認できないままに
抱きしめられる、
不安定な心のようなものだ。

冨士夫には“てんかん”の持病があった。

この、脳の一部分が興奮しておこす発作を
冨士夫は定期的に発症していた。

「その度に、途方も無い脳細胞が死滅するんだぜ」

と、笑いながら自虐的に言う冨士夫に、

「一度、病院で診てもらったら?」

と、精神的な診療を持ちかけたことがある。

「いやなこったい!」

と、一蹴されてしまったが、
3歳までの記憶をどこかに封印していて、
それが原因の“てんかん”ではないか?
なんて、おせっかいなことを
考えてしまうのだった。

妄想の続きはこうだ。

若くして冨士夫を産んだ母親は、
冨士夫が3歳になるまでは
横田基地で働く父親が
生活の面倒をみてくれていたので、
冨士夫を育てながら
それなりに頑張って暮らしていたのだが、
父親は1952年に帰国命令がくだり、
本国に戻されてしまった。

困った彼女は、当時、乳児院だった
聖友ホームをたより、
覚悟を持って冨士夫を預ける。

幼い冨士夫も、
無意識な心の奥深い部分で
そこまでの全ての記憶を
封印したのだろう。
消し去らなければならないという
潜在意識が働いたのかも知れない。

それが原因で
定期的に起こる“てんかん”
ではないのだろうか。
心の中に隠してしまった想いが、
ふつふつと沸き起こるのである。

そんな話を冨士夫にすると、
「もう、それは、いいから」
とあしらわれたのを思い出す。

僕らの乗ったクルマは、
16号線から横田基地の
メインゲートを眺め、
福生や羽村へと続く
奥多摩街道に入っていった。

冨士夫の生い立ちも横田基地絡みなら、
人生の終局も不思議な因縁のように
軍属が絡んできたわけだが、
そこら辺の話はまた今度にしよう。
やり切れないほどの
様々な想いにとらわれるからだ。

運命という観念で
割り切れないほどの現実が、
実は僕らのすぐ隣りに
あるような気がしてならない。

“何か買って行くものある?”

とエミリにメールしたら、

“適当に飲み物を”

ということだった。

冨士夫とよく行った
スーパー“マルエツ”で、
ハイボールでも買って行くことにした。

その道を挟んだところには
100円ショップの“ダイソー”がある。

この2店舗には冨士夫のリクエストで
ほんとうによく行った。

“マルエツ”でゆっくりと
買い物しているぶんには良いのだが、
100円ショップで
1万円近い買い物をされると
カゴが幾つあっても足りなくなる。

「ほんとうにコレ、聴くの?」

そのカゴの中から、
誰が歌ってるかもわからない
ビートルズや欧米ポップスの
CDを見つけて問うと、

「もちろんだよ、ずっと聴きたかったんだ」

なんて、大真面目に答える。

それも何十枚もなのだ。
ソレらが結局は封も切られずに
ずっと冨士夫のベッドわきで
待機していたのを僕は知っている。

冨士夫の家からこの2店舗に行くには、
坂を上って行かなくてはならない。
歩いて行くと15分ほどかかるだろう。
その道程でよく僕に携帯をかけてきた。

「今すぐ話してぇことがあるんだ」

「わかった、話しなよ」

「話しってもんは、顔を見ねえとな、本心が伝わんねぇんだよ」

「えぇ!? 今日は行けないよ、時間がないからさ」

「じゃあ、いつ来れる?」

このような会話は永遠に続いた。

飽きもせずにずっと鳴き続ける
夏の蝉時雨のように。

…………………………………………

むせ返るほどに緑が茂った庭を抜け、
エミリん家に入り、
いつも寂しがり屋だった
冨士夫に線香をあげる。

ひとしきり、
相変わらずの馬鹿話をして、
暮れかかった景色に
帰り支度をしている時だった。

ふっと気がついたら、
降るような蝉の声が、
すっかりと鈴虫の
音色に変わっている。

「早いね、もう秋の気配なんだ」

「コッチは少し早いのかもね」

そう言って笑うエミリと別れ、
冨士夫を惜しむ
5年目の夏も過ぎ去って行くのである。

帰りには阿佐ヶ谷で、
Kくんとひとしきり呑み、
石神井公園わきの小道を
千鳥足気味で家路に向かう。

「夏休みも終わりだな」

そう想いながら歩いていると、
草むらから鈴虫の声がしてきた。
コチラでも鳴き出していたのだ。

“気がつかなかったな”

負けじと頭上で鳴く蝉の声と、
足元で鳴く鈴虫の声が渦巻いて、
思わず立ち止まって目を瞑った。

「じゃあ、いつ来れる?」

遠ーい心の中で、
冨士夫の声がした気がして、

思わずコッチまで
泣きそうになっちまった。

(2018/夏)

 

 

 

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