160『石丸忍(いしまる しのぶ)画伯』藻の月展

子供の頃は誰でも芸術家だ。
歌うことや、描くことが
大好きなのである。

小学校に入学した時、
隣に座っていた
N澤くんが描いた風景画が
とても気に入った。

緑の山と空のコントラストが印象的で、
思わず真似て描いてみたら
“学校賞”をとってしまった。

「僕の絵を真似したでしょう」

廊下に貼り出された
金賞に輝く我が作品の前で、
N澤くんが静かに
訴えていたのを思い出す。

「知らねぇよ」

思えば、さりげなくそう答えた瞬間から
僕のゆがみが始まっていたのかも知れない。

それからは得意になって絵を描いた。
授業中に漫画を描き、
深夜まで勉強もせずに
落書きに勤しんだ。

そーゆー子は、
普通の学校生活はおくれない。
高校生になると日がな一日、
音楽を聴きながら
あらゆる妄想にまみれる
高校生活を送るのだった。

そんなある日、
ふと見た『デザイン専門誌』の中に
好みの絵を見つけた。

いや、絵というよりコラージュである。
(それは、フラワートラベリングバンドのジャケット『SATORI』に使われたイラストであった)

作者は新進気鋭の作家、
石丸忍(いしまる しのぶ)。
その細かい構成や
繊細な描写を眺めながら、
何時間も妄想した覚えがある。

それは、小学校に入った時(N澤くん)
以来の心のざわめきだったのだ。

“是非ともこの人と一度会ってみたい”

とは残念ながら
夢にも思わなかったが、
悪戯好きの神様は
こんな絶好の機会をのがさない。

それから約8年後に、
友達だったエミリの導きで
石丸忍と出会うのである。

隣には同じく
夢にも思ったことがなかった
ダイナマイツの山口冨士夫がいた。

そんな冨士夫と忍は、
まるで仲の良い兄弟のようだった。
冨士夫のライヴには
必ずといっていいほどに忍がいた。
忍が酒を呑むときには
必ず冨士夫が付き合っていたのである。

しかし、当時の忍は
すでに絵描きでもなんでもなかった。
生活のために職人をしていたのである。

“俺が知っている石丸忍がそんなんじゃ、あかん!”

若気の至りというか、
思慮が足りないというか、
この立派に生活をしている状況の中で、
僕は独りよがりのお節介を
してしまったのである。

ちょうど某PCメーカーの
正月の新聞広告の仕事が
舞い込んだときだった。

“これで再び羽ばたいてもらおう!”

そのイメージイラストを
忍に依頼したのだった。

さて、締め切りまでは一カ月、
2週間が過ぎたので
下書きを確かめようと
善福寺にあった彼の家に
出向いたときである。

「どんな感じですか?」

しかし、何もできちゃいなかった。
線の一本も描いてないのだ。

忍はほろ酔い加減で僕を出迎えると、
かつての作品群を
押入れの奥から出してきて言った。

「ほんとうに描きたい気持ちはあるんだけどさぁ‥」

そう言って笑うのである。
描けないのだ。
時間も作れないでいるのだった。

その痛みは、今ならわかる気がする。
生活のために働くことと、
好きなことで食っていくこととは違うのだ。

結局、このアイデアは断念した。
よく覚えてないのだが、
急遽、別の案をでっち上げて
切り抜けたのだと思う。

そーゆーのは得意だったなぁ、ホント。

それ依頼、善福寺にあった
忍の家には行っていない。

それから何年も経ったある日、
『TEARDROPS』も解散し、
冨士夫とも距離を置いている頃だった。

打ち合わせ帰りの
家路へと向かっていたら、
犬を連れて走る変な輩が
目の前を横切った。

“あれ!? なんか、見慣れた犬だな”

と思ったらウチの犬であった。

連れ回していたのが石丸忍。

近所に引っ越してきた挨拶に、
(ウチの)犬の散歩をしていたって訳である。

って、そんな挨拶も訳もあるものか!?

それからはしばらくの間、
勝手に庭に入り込んで
犬を散歩に連れて行く
忍の姿が日常になった。

たまには忍と縁側でお茶でも飲みながら、
愉快な昔話を聞くこともあった。

この世代の人たちが語る
フラワーストーリーは、
いつ聞いても楽しいのだ。
良い時代に若者だった人たちなのである。
憧れだったかつての石丸忍もその中にいた。

そのうちまた、
“近ごろ忍を見ていないな”
なんて思っていた頃、

「としちゃん、俺、死んじゃうんだよ」

って、悲しい声で忍が電話してきた。

聞くと、何やらかの癌の末期で、
すでに腹水が出ているのだと言う。
入院費が足りないので
助けてくれないかということであった。

“ほんとにぃ?”

って思わず疑ったら、
烈火の如く怒ったので、
慌てて金をおろして
上石神井の駅まで出向いた。

そこに腹水で腹を膨らました忍が
改札口まで来ていて、
(外出していいのか!?とも思ったが)
死にそうな青ざめた顔で金を受け取り、

「さようなら」

と一言漏らすと、
傷ついた鳥のように去って行った。

「さようなら」

僕もそれに応えた。

僕のそれは、
去って行くなけなしの金に対して
呟いていたのであるが。

結局のところ、
その後の忍は元気であった。

「ヤブ医者って、どこにでもいるもんだな、栄養失調だったんだよ、俺。それで腹が膨らんでいたんだよ」

にわかには信じ難い話だったが、
あんまり本当だと言い張るから、
信じることにした。
因みに用立てた入院費は
栄養をとる手段に使ったらしい。

「それって、飲み食いに使ったってことじゃねぇの?」

と聞くと、

「違うよ、もっと俺の大事な栄養になっているんだ」

って、エラそうに言うのである。

最初に惚れた方が弱い。
僕にとっての忍は、
いつまで経っても
憧れの石丸忍なのである。

それからまた何年もして、
音楽のおの字もない頃、
歌舞伎町で夜通し遊んでいたら、
『チナキャッツ』のおハルと出くわした。

聞くと、すぐそこの店で
石丸忍の個展をやっているという。

真夜中だったが、
いかにもロックっぽい匂いのする
懐かしい感じの地下を降りて、
さほど広くない店内に入ると、
店の奥のソファに忍画伯が陣取っていた。

何年ぶりだったのだろうか?
この時が実に“死んじゃう”ぶり
だったのかも知れない。

壁にいくつもの忍画伯の
絵画が展示されていた。
その中でも
ボートが池の淵に繋げられている
水彩画が気になった記憶がある。

穏やかな水面に浮かんでいるボートは、
今の忍の平穏なる気持ちを
表しているのだろうか?
なんて、忍の顔をそっと
観察したのを覚えている。

おハルがギターを弾き歌い、
忍が踊るように笑いながら、
歓喜の雄叫びを上げる。

久しぶりに愉しいひと時だった。

そこからは誰かのライヴの度に
忍画伯と出くわした。

「しのぶ、元気?」

「としちゃんは?」

だんだんと痩せていく
忍の姿が気になったが、
あえて考えないようにしていた。

再び冨士夫との付き合いが復活し、
日出町のつるつる温泉で
療養させている頃に
忍からかかってきた電話が、
最後に交わした会話になった。

こうして書くと、
人生はあっという間である。

大切な人との関わり合いも、
断片をつなぎ合わせた
ジグソーパズルのようなものなのだ。

忍が荼毘に付された日は、
とても暑かったように記憶している。

名前は知らないが、
国立の外れにある店で
葬儀の二次会が催された。

そこにも忍の絵が展示されていて、
なんだかとても救われる気がした。

冨士夫が音を残したように、
忍もしっかりと絵を残していたのだ、
と思ったからだ。

それも結構な大作揃いである。

“あんな風に絵を残せたらいいな”

忍の絵を見る度にそう思うのであった。
そう、僕もあんな風に絵を描きたいのだ。

………………………………

去年くらいから『藻の月』の
仲間に入れてもらった。

まだなぁんもやっちゃいないのだが、
行動を共にしている。

「今度、『藻の月展』をやるんだけど、トシも参加しねぇか?」

ジョージが誘ってくれた。

思いがけなかった。
とても嬉しかったのである。

正月明けに画材を買い込み、
時間を見つけては絵を描いている。

ずっと描きたかった絵が
やっと描けるような気がするのである。

人生はぐるりと一回りすると
子供の頃に帰っていくのだという。

「僕の絵を真似したでしょう」

N澤くんの怒った顔が
心のずぅっと奥の方で呟いていた。

(ずぅっと昔から今)

『藻の月/展示会』
MONOTSUKI Asstellung

■日時:2021年1月30日〜2月14日Open:13:00
■場所:Terapin Station(テラピンステーション)
東京都杉並区高円寺南2-49-10
tel&fax 03-3313-1768
営業時間12:00~20:00
水曜定休

■参加者
西脇一弘/岡本一生松本大丈夫(aord)/菊池マリ/ジョージ/ニャル/のでい/長谷川梟/樋口敬子/吉田亮/まる子/安井慎二/Ren Hirayama/粕谷利昭

※MONOTSUKI 展示会/ポスター・チラシ:イラスト&デザイン制作 君島花音

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