~レリックの誕生 JW Black & Vince Cunetto ~ 後編

前編はこちら
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/birthofrelic/

さてNAMMショーで華々しくデビューして、正式に生産が決定したレリックモデル。

初回分にはなんと400本ものオーダーが舞い込みます。

ここで問題なったのが、その生産方法。

極秘でプロジェクトが進められたせいなのか、これほどに多くのオーダーが入ることを見越していなかったのか( あるいはなにも考えないで進めてしまったのか)、ある程度の数量を製作する準備がFender Custom Shopにはありませんでした。

  1. 当時のフェンダー工場ではEPAという制度のためにレリックモデルに必要なラッカーが工場内で使えない
  2. そもそもレリック加工をこなせる技術者がいなかった(教えてもらってすぐにできる)

という状況でした。

そこで、元々はレリック加工の手法を教えるだけのつもりだったCunettoでしたが、
Fender Custom Shop内ではなく、外部にレリックのみを専門にした自身の工房を作り、そこで受注することをJohn Pageに提案しました。

彫金やペイント等を含むアート系のギターを制作するに際して、外注することも多かったので、この提案はすんなりと通りました。

その後、Cunettoはミズーリ州にCunetto Creative Resourcesという自身の工房を作り、フェンダーからのネックやボディ等のパーツの受け入れを開始します。

開始時は“Nocaster””Mary Kaye”モデルを生産することになり、そこから週に20本分のボディやパーツにレリック加工を施して、最終の組み上げのためにコロナに出荷するという流れになりました。

一部のディーラーたちからは嘲笑の的にされたようで、事実最初期はわずかに販売にも苦戦したようです。
ダラスのギターセンターは入荷したRelicギターを、販売が滞ったために全てシカゴのギターセンターに送ったというエピソードも。

しかしアーティストやプロミュージシャン達にRelicギターを提供するというプロモートなども功を奏し、徐々にセールスを拡大していき、瞬く間にカスタムショップのカタログのメイン製品となることになります。

1996年までに2トーンサンバースト/メイプルの50sストラト&3トーンサンバースト・ローズの60sストラトの新しいモデルの追加に加えて、 1点もののオーダーなども増えたことで、Cunettoは前工房の3倍のキャパシティの工房に移ることになりました。

ここからは週40本分ペースでの出荷となり、そして程なくして、オリンピックホワイトのストラトやカスタムカラー等もラインナップに加えられることになります。

Cunettoはフェンダー社が使用していたデュポン社の塗料のナンバーも既に研究済みで、Sting、Rolling Stones, Eric Claptonなど、数々のアーティストのためのカスタムカラーのギターを制作したそうです。

1997年には現在で言うところの”Closet Classic”である”The Relic Classic”というレリックに対する新しいアイディアが生まれることになりますが、このアイディアはCunettoの工房で行われることはありませんでした。

1998~99年にはFenderにとって、そしてCunettoにとっての大きな影響を与える様々な変化が起こります。

まずはNAMMショーでのデビューのプロデュースを手掛けたRelicプロジェクトの立役者の一人であるジョン・ペイジ氏が新たに設立されるフェンダーミュージアムのためにカスタムショップを去ることになりました。

加えて、Fenderは新しい工場や施設の拡大を行い、ラッカー塗装なども可能になりました。

そのこともあり、新しいアイディアであった“Closet Classic”の加工は、新しいマネジャーと会社のポリシーによりはFender Custom Shop内で行うことに。(この頃はRelicはまだCunetto氏によるものです。)

そして1999年にはジョン・ペイジの代わりに入った新しくマネージャーであるMike Eldredにより、レリックは今後すべてCustom Shop内で行うと決定されることになりました。

Relicの外注が終わってしまうに関してCuentto氏はこう語りました。
“やはり自分の工房を閉めて従業員たちを解雇したのはとても嫌なことではあった。だけど、元々この仕事が永遠に続くわけではないと分かっていた。
JW Blackとはきちんと契約を結んだわけではなく、お互い’辞めるまでやろう’と握手しただけ。
とてもいい経験になった。
広告業界で仕事をしながら、趣味として作っていたギター。
それが仕事になったんだから最高なだったよ、しかも相当稼げた。
Fender側も節約出来ただろうし、お互いWin-Winだったんじゃないかな”

(語り口からもなかなかワイルドな人だったのかもしれません)

かくして1999年5月の最終出荷後、Cunetto Reilicは終わりを告げることに。

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