カスタムショップ創世記と発展 ~John Page 2~

前回はこちら
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/1/

1986年、自身のシンガーソングライターとしてレコード製作を目指して音楽活動を改めて始めることにしたジョンは、フェンダーでの仕事を一旦辞めることにしました。
が、残念ながらうまくはいかず、11ヶ月後にまたフェンダーに戻ることにしました。
本人は定期収入がないミュージシャンでいるのが不安というような言い方をしていますね。

1987年、当時のR&D担当で副社長のDan Smith(ダン・スミス)に直接連絡を取り、仕事の空きがあるかどうか尋ねたそうです。

ダンはCEOのBill Schultz (ビルシュルツ)と相談した結果、ビルはジョンに2つの選択肢を用意しました。

  1. 元いたR&D(研究開発部門)に戻る
  2. Michael Stevens (マイケルスティーブンス)と共にフェンダーカスタムショップの共同設立メンバーとなる

もちろんジョンは”2″を選択します。
実は数年に渡り、カスタムショップ設立のアイディアはジョンやダンの間で話し合われていたそうで、ようやく現実のものとなったということでした。

マイケル・スティーブンスはアシスタントとしてジョンを含めた数人の中から選ぶ予定でしたが、1番最初にジョンと話してそこで即決したそうです。(他の人たちとは話すこともなく)
“フェンダー内のことを良く知っていて、陽気で面白い男だから”とマイケルは語っています。

ちなみに共同設立者であるMichael Stevensについて詳しくはこちら
https://www.niconico-guitars.com/html/blog/staffblog/introducing-fender-masterbuilders/

ここからジョンは12年もの間、”ドリームファクトリー”と呼ばれるカスタムショップを牽引することになります。
まず新しい工房のセットアップから必要な工具や器具の購入などから始まり、急いでカスタムショップのための工場をセットアップしていきます。

そこでもジョンは猛烈な勢いで働いたそうです。

工場のセットアップが済むのを待つ事なく、まずはクラプトンモデルをNAMMに間に合わせなければいけなかったそうで、そこから数ヶ月はマイケルの家のガレージで制作を続けたそう。

ようやく完了した工房に入りますが、そこはボーリングのレーンを思わせるような長細いオフィスで、しかも真ん中に大きな柱が立っていたそうで、おおよそ23坪程度の小さな場所で、とても満足のいくようなスペースではなかったそうです。

そんな中で、ジョンの最初の製作となったのは、バンド”CARS”のギターリストのElliot Easton (エリオット・イーストン)のためのシーフォームグリーンのメイプルトップのシンラインテレキャスターとマリー・ケイスタイルのストラトキャスターでした。

ジョンの友人でもありフェンダーに戻ることを勧めた張本人で、R&D部門にいた頃にジョンが製作したギターを使用しており、そのギターを絶賛していた人物でした。

その他にも複数オーダーが入っていましたが、マイケルとジョンの個人的な顧客が主だったようです。

全ての工程を一人でやって1本完成させるということはなく、二人で手分けしていたようで、この頃のオーダーシートを見ると、ボディ/ネック/アッセンブリー/セットアップと分業していました。

余談ですが、設立当初にマーケティング部門から頼まれた仕事はFender Japanのリフィニッシュだったそうで、ジョン達は本来のカスタムショップが目指すところではないと激昂しつつも、これを受注したそうです。
(細かな話を読み解くと、この頃から既に製作側と他のセールス関係の部所とのこういった衝突が多々あったように見られます)

最初の数ヶ月はほとんどオーダーがありませんでしたが、マイケルとジョンの尽力もあり、カスタムショップの好評価はあっという間に業界に広がっていたようです。

その後1987年の末から88年の最初にはRichard SyartoFred Stuartも新たにメンバーに加わったこともあり、壁をぶち抜いてスペースを作ったそうですが、まだまだ小さいものでした。

次々とオーダーが舞い込み続けたため工房を急ピッチで広げなければいけなくなり、そこから88年、89年、90年と毎年転々と場所を変えていきつつ、工房は大きくなっていきました。

それまでのカスタムショップの発展からフェンダー社から絶大な信頼を獲得しつつあるジョンは、その間の1989年にはかつて在籍したR&Dの責任者も兼任することになります。

~続く~

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