038「NO NUKES ONE LOVE/いのちの祭り」

038「NO NUKES ONE LOVE/いのちの祭り」まいた種

なんだか雨が降り続くいまいちの天気。
真夏だというのに、空気が肌寒く感じられる。
しかも、もう夕暮れどきだ。
あいにくの風景に人々はテントの中、
きっと、思い思いの雨宿りをしているのだろう。
まばらに踊る女の子たちが、
ステージ前で数少ない傘の華を咲かせていた。

宿から連れて来たメンバーたちは、
バックステージ代わりのテントで
すでにスタンバっている。
いつもは身勝手が売りのウチらも、
今回ばかりは気を遣っているのだ。
打ち合わせ通りに、オンタイムで、
できるだけスムーズに演り終えようと考えていた。

今、ステージで演っているバンドが終えると、
つぎの次が『TEARDROPS』だった。
時間にして1時間後くらいか。
考えてみたら、ちょうどいいのかも知れないと思った。
そのころにちょうど日が暮れそうだ。
ステージのライトに灯がともる瞬間に
現れるのも悪くない。

そう思いステージ横に戻ると、
主宰側の進行スタッフに呼びとめられた。
次のバンドがスタンバってないから、
『TEARDROPS』を先に演ってもらいたいと言う。
えっ !? そりゃないだろ !?  このタイミングで !?
通常なら 即!断るところだが、
このイベントのスタッフは悪びれない。
こちらも、出演者にして賛同者という意識があるので、
なるべく物わかりの良い人風に、
「メンバーに聞いてみますね、大丈夫かなぁ?」
なんて、言っちゃう。

バックステージに戻って、
この状況をメンバーに伝えると、やはりざわめいた。
準備ができていないのだ。
それでも青ちゃんが、
「とっとと演っちまおうぜ!じゃらくせえや」
と啖呵を切るのを合図にステージに向かった。

ステージのそでで冨士夫が言う。
「グァテマラのインディオから、ゆったりといこうや」
ほんとうは『まいた種』から飛ばすつもりだったのだ。
ゆっくりとステージ上でセッティングにかかる。
それを見たオーディエンスたちが、
突然に現れた『TEARDROPS』に驚き、
ステージ下に少しずつ集まり始めていた。

雨はほとんど上がったようだった。
どんよりとした空が暮れ始めている。
『TEARDROPS』を告げるMCが、
マイクを通してその景色の中にバイヴした。

♪グァテマラのインディオ〜
インディオのグァテマラ♪

ステージの中央に向かいながら冨士夫が歌い出す。
テントの中で休んでいた人たちが顔を出し、
ステージに向かって動き出すのが見えた……。

……そんな真夏のワンシーンを思い出す……
小雨に湿った寒々としたスキー場のスロープ。
思い描いていたシーンとは少し違っていた。

さて、そこからさかのぼること数ヵ月前、
1988年の春、僕らは南正人氏の家に出向いた。
その夏に開かれるというイベントに対して
冨士夫への出演オファーがあったため、
打ち合わせに出かけたのだ。
イベントの名称は『いのちの祭り』。
1988年8月8日に八ケ岳で実施するという。
呼び掛け人の一人でもある南正人さんは
「NO NUKES ONE LOVE」
というスローガンの入った大きな旗を掲げて見せ、
【自然と生命の尊さを考える】という主題のもとに
8月1日から8日間に渡って行われる
このイベントの重要さを僕らに説いた。

冨士夫にとっても望むところだ。
ここら辺の意識は昔から高い。
少し前にRCの『COVERS』にも参加していたし、
仲間たちが反原発を通して活動する
様々な運動にも共鳴していた。

僕らは8月6日に現地入りした。
出番は7日の夕方である。
ステージのあるスキー場から
少し離れたところに宿があり、車で移動する。
したがって、この日はメンバーが
思いおもいに、つかの間の夏休みを過ごしたのだ。
僕は知り合いのテントがないか探して歩く。
青ちゃんがいた。カズがいた。佐瀬がいた。
面白いことに、それぞれが知り合いの
テントを見つけて身を寄せていた。
僕は、野内さんのテントに居着くことにする。
野内さんというのは、
当時の『TEARDROPS』を撮ってくれていたフリーのカメラマン。
数年前に残念ながら亡くなってしまったが、
もの静かに騒々しいことを企んでる様な人で、
僕にとっては居心地の良い存在だった。

冨士夫とエミリは主宰側のブース周辺で見かけた。
冨士夫はこのころから膵臓がわるくなりはじめ、
個人的な打ち合わせなどは
エミリが代行したりしていた。
そのエミリも足を骨折していてままならない。
なんとも不自由な二人なのだが、
ちょっと、僕らとは意識が違っていたのだ。
いうなれば、『いのちの祭り』の
ほとんど『祭り』に来ていたのが僕らなら、
ここでは『いのち』が悠々と流れているって感じだ。
ネイティブアメリカン・ホピ族の羽が象徴となり、
チェルノブイリの原発事故以降の危機感を提唱していた。
ただ、喜納昌吉さんのテンションがすさまじく、
「エナジーが!」と、興奮して叫んでいるのを見て、
冨士夫をなるべくここから離そうと思ったのを憶えている。
意識が同じでも、興奮した者同士がぶつかることはよくある。
「考え過ぎだよ、トシ」
と、冨士夫は言っていたが、
瞬間湯沸かし器の取り扱いは、
考え過ぎくらいでちょうどいいのだ。

そんなわけで、翌7日が『TEARDROPS』の出番、
小雨の夕暮れ時のステージとあいなったわけである。
『グアテマラのインディオ』から『Rock Me』へと続き、
『まいた種』の演奏が始まるころには、
ステージ前にたくさんの人が集まっていた。
照明にも灯がともり始める。
『運命の糸』も、『いのちの祭り』に絡んで、
なんだか重く深い意味に感じられた。
短いステージではあったが、
演奏した本人たちも納得したのだろう。
意気揚々とステージから降りると、
何百もあろうかというテントに散って行った。
きっと、ホピ族のように、
夜通し踊りながら呑むのだろう。
それもまた『いのちの祭り』である。

今でも語り継がれる、
80年代ニューエイジムーブメント、『いのちの祭り』。
日本中がバブルに沸いていた当時は、
先を急ぐ一般人たちにとっての
『痛い存在』だったのだと思う。

あれから30年近い月日が経ち、
日本列島は各地で幾度もの災害に見舞われ、
原発の崩壊も現実に体験した。
それでもまだ、懲りない人たちがいる。
それでもまだ、利益に取り憑かれた傘の下で、
雨風を凌いでいる自分たちが悔しい。

1988年8月8日の八ヶ岳。
「8が縁起が良いのは中国じゃん」
なんて、当時、香港ばかり行っていた軽薄な自分にとっては、
『いのちの祭り』は、ほとんどが『祭り』でしかなかった。
しかし、この期に及んで、
東日本大震災の傷の手当も中途半端に、
「原発を再稼働します」と言われた日にゃ、
『いのち』をグッと掴まれた気分になる。

夏の暮らしが、もっと暑苦しくなっても、
何かで扇いで我慢できる。
真冬がもっと寒くなっても、
たくさん着込んで頑張ろうと思う。
多少、生活が不便になっても、
それなりに時間を見つけて、
のんびり過ごせばいい。

だから、もう原発はいらないよ。
やめていい。
『NO NUKES ONE LOVE』

「まいた種は、刈らなきゃならない」
……のだから。

(1988年8月)

http://www.nicozon.net/watch/sm7913394

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