105『天風会館』”People at Tenpu Hall 1990″ / “天風会館にいた人たち 1990″aquilha mochiduki

「天風会館で演りませんか?」

そう、誰かに言われたのだろうか?
それとも、いつも意外性のある
会場を探していたから、
天から風に乗って
情報が降ってきたのかも知れない。

「おいおい、馬鹿言っちゃイケないよ。ソコは俺らが教えてやったんじゃないか」

という輩が、きっといるのだろう。
確かに誰かが教えてくれたのだ。
しかし、うかつな事に
本当に忘れてしまったのである。

ただ、打ち合わせに行った
28年前の場面を憶えている。

護国寺の真横にある
四角い5階建てのビルが天風会館だった。
不動産屋風に言えば、
地下鉄護国寺駅から
徒歩1分というところだろうか。

会場の横にある寺(護国寺)の入り口が
駐車スペースになっていて、
(寺の参拝者用の駐車場なのだが)
数台の車が自由に停められた。
世知辛い現代とは違うのだ、
文句を言う輩も見当たらない。

「こりゃあ、やりやすいぞ」

スペースの端には交番もあり、
挨拶でもしておけば万全なのである。

建物の1階はホールになっていた。
確か客席が800席くらいは
あったんじゃないかと記憶している。

「こりゃあ、オイラたちだけじゃ無理だぞ」

TEARDROPSの他に誰か呼ばなきゃ、
なんて想っていると、
冨士夫がまったく違う方向から
口を出してきた。

「命の祭りをやるんだよ、此処でさ」

そうなのか、そんな考え方もあるんだ。
TEARDROPSに凝り固まっていた
コッチの想いを冨士夫がこじ開ける。

「音楽にメジャーもマイナーもないだろ。俺自身がそうであるように、そんな垣根を飛び越えたところでのイベントをやりてぇんだ」

そりゃあ良いアイデアではないか。
まさに当時の冨士夫にしか
できない発想である。

「冨士夫はメジャーとマイナーの架け橋になりたかったんだよ。そう言ってたもん。出演者は一律同じギャラで、同じ条件で、なんてね。私なんかも対外的に、随分と交渉したよ」

エミリも当時を思い出して、
懐かしそうに遠くを見る。
彼女はTEARDROPSのスタッフだったが、
やはり冨士夫の個人的なマネージメント色が濃い。
それは当然である。
だから、冨士夫が甘いか辛いのか、
まずはエミリに問い合わせてみる。

「え〜っ!? 今日の冨士夫はすっぱいよ」

そう言われれば、それように対処して
甘い話題でも仕込んでから、
冨士夫と対面するようにしていた。

そこにもう一人、
この頃からスタッフが増える。
梅ちゃん(梅木)である。
彼はアシッドセブン・グループ(※1)であったが、
冨士夫が逗子に引っ越したこともあって、
北鎌倉に住んでいた梅ちゃんが
この頃から冨士夫のマネージメント的な
役割も請け負うことになったのだ。

つまり、僕と梅ちゃん、
そしてエミリの3人体制で
TEARDROPSをきりもりしていたのである。

あれっ!?
すると、先週お話した会計士は?
マネージャーを買って出たんじゃなかったんだっけ?

「ああ、あの人ね。そういえばいたよね。もっと、後に登場するんじゃない?」

わからなくなって、
電話でエミリに問い合わせてみたら、
そのようなお答えだった。
なんといっても30年近く前の話なのだ。
記憶違いはそこかしこにある。
そこら辺のところは、
今度、遅い新年の挨拶に
冨士夫ん家に行ったときにでも
吟味してみようかと思っている。

ところで、この時、
新しく入った梅ちゃんの存在に、
僕は随分と助けられた。

梅ちゃんと共に仕事をするのは、
TEARDROPS がストップするまでの
半年くらいの期間だったのだが、
その頃が僕にとっては
途方もない状態だったのだ。
だから、そこに登場した梅ちゃんの軽さが、
この上なく心地良かった。
梅ちゃんは良くいえば何事にも動じない。
それを裏っ返すと
無責任になることもあったが、
アレコレと考え過ぎるよりも、
階段を跳ねて登ったほうがいいって感じさせてくれた。

 

「チラシの裏面に広告を載せようよ」

梅ちゃんが弾むように言ってきた。
天風イベントのチラシの裏に
10等分のグリッドを引き、
そこに広告を集めようと言うのだ。

「1枠数万にすれば経費の足しになるじゃない。クライアントのあてがあるからさ、僕がとってくるよ」

まるで、1人広告代理店である。
いかにバブルの残り臭漂う時代だといっても、
そううまくいくのだろうか?
なんて思っていたのだが、
数日後にはサラッと広告が埋まった。
そんなところが通快だったような気がする。

そんな強力な仲間も加わっての
この頃のTEARDROPSの活動だったのだが、
もう一度、場面を
天風会館の打ち合わせ時に
戻してみようと思う。

1990年10月27日の午後7時、
天風さん(と呼ぶのも変だが)からは、
お2人ほど、和やかな職員の方が現れた。
バンドブームの余波で、
使用できない会場も増えているご時世だった。
特に公営の公会堂関係は、
『ロックお断り』が普通にある時だったと思う。

「ウチは大丈夫ですよ。なんだったら、2階も使用可能です」

天風さんは、時代とは関係なく優しかった。
ロックでも何でも使用できるという。
2階には会議室のような
仕切りのある部屋が幾つもあり、
以前はキングレコードが
此処を間借りしてたのだとか言っていた。
音楽に対して理解があるのだ。
物腰もやんわりと心地よい。
まさに天風のごときであった。

費用も比較的リーズナブルだ。

「決まりだね、ここでやるべ」

その場で12月29(土)30(日)の
2日間の会場を押さえた。
手帳を見ると、
『10月27日天風会館下見』とあり、
『10月29日ぴあ・宝島情報締め切り』とある。
たぶん、真ん中の28日1日で
全ての内容を決めたのであろう。
僕はポロポロといろんな物事を
取りこぼしながらも、
先に進んで行く事を得意としていた。
それを拾って歩く、
TEARDROPSのメンバー当事者や、
関係各位には頭が上がらないのだが、
このときは、ふと頭を上げてみたら、
梅ちゃんの方が先を走っていた。

「お〜い、梅ちゃん、大事な企画の要素を落としてるよ〜」

「いけね、ありがとう、拾っといてぇ」

ってな、具合である。

直近のチケット発売は
11月17日からだった。
公演日までの時間が5週間しかない。

「あせらねば」

冨士夫は早速、
命の祭りグループ(そう呼ばせてもらいます)
との打ち合わせに入る。

『チナキャッツ』のような、
ずっと存在し続けるであろうバンドを中心に、
様々なミュージシャンと交渉した。
企画としては、
突然に街中でやる命の祭りだったので、
会館2階の総てが、
彼らが展示・プレゼンする、
『NO NUKES / One Love』
スペースになった。

誰がどう考えてみたって、
原発が良いはずがない。
それがなきゃ今の暮らしが
維持できないというのなら、
不便な生活に戻れば良いだけの話である。

2階を一周すると、
単純な僕の頭なんかは、
すっかりとそんな気分に
なっていたのを憶えている。

何が便利で、何が不便なのか?
社会の常識とは?非常識とは?
世の中はその時の体制によって、
全てがいとも簡単にひっくり返る。

「社会には、体制を見張る反体制が必要なんだ」

教師だった呑んベエ親父の口癖を思い出した。
それは生きている限りずっと、
頭の中にあるのだろう。

「鮎川さん(鮎川誠)や、BO GAMBOSも出たんだっけ?パンタさんも出たよね」

もう一度、エミリに訊いてみる。

「出たよ。誠ちゃんは、ギャラ的にどうかな?と思ったけど、都内だから行くよって(笑)。BO GAMBOSは考え方そのものに共鳴していたしね。パンタはどこかで冨士夫と出会ったんだよ、他のイベントかなんかでさ。その時に天風イベントの話をしたら“俺も出させろ”って言い出した気がする」

会場には、街のカジュアル族と、
山のまつり族とで、
滅多にない光景になった。
それもこれもが、
冨士夫が描いていたビジョンだったのかも知れない。

TEARDROPSにとっての『天風会館』は、
まさに『終わりの始まり』だったが、
山口冨士夫という個にとっては、
新たなる幕開けだったのだ。

同じ場に居て、
同じ世界を共有していても、
向いている方向によって、
まったく違う想いの中で、
未来を描いている。

あのとき、新しい年を迎えるべく、
僕らは天風でのイベントを創った。

倦怠感や脱力感と一緒に、
新たなる期待感も
そろそろ生まれてくる頃だった。

『始まり』と『終わり』は、
永い目で振り返れば
同じ景色の中にあるように想う。

要は、僕らの心の持ち様なのだ。
天風の中で揺れている、
心の表裏のようなものなのかも知れない。

(1990年12月)

※1:アシッドセブン=Dr.SEVEN/基本はミュージシャンである。70年代都市型コミューン「アシッドセブン・ファミリー」の創設者。

天風会館/天風会は、人間が本来生まれながらにもっている「いのちの力」を発揮する具体的な理論と実践論。「心身統一法」を普及啓蒙している公益法人が所有する建物である。

 

 

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