154『つげ義春からBEATLESまで』

『おうちでゆっくり』
にも慣れてくると、
何処にも行かないことが
けっこう愉しくなってくる。

元来、怠け者なのだ。

随分と長きに渡り
働く人のフリをしてきたが、
「実は違うんです」と、
自らの表面をひるがえしたい。

こんな(ゆったりとした)ときは、
『つげ義春』の世界に浸りたいと思い、
通販で何冊か注文した。

ストイックの反対側にある
何ともいえない心根に魅かれるのだ。
寝転びながら人生を考えられる
恰好のバイブルなのである。

昨春だったか、
調布の多摩川沿いにある公団まで
送っていった女の人が、

「実は『つげ義春』が大好きなんです」

と唐突に言い出した。

大好きが高じて、
『つげ義春』信奉者の旦那と共に、
『つげ義春』が住んでいた団地に
引っ越したのだという。

「僕も好きですよ」

っと応えたら大喜び。

名作『無能の人』に描かれた
様々なシチュエーションを挙げて、
あれはソコ、これはアッチとか
教えてくれながら、
「一緒に廻ってみませんか?」
と、簡易『つげ義春の作品を巡る旅』
のお誘いを受けたのだが、
丁重にお断りした。

残念なことにそこまでは
時間がなかったのである。

……………………………

15年ほど前になるだろうか。

福生の病院に入院していた
冨士夫を見舞ったときに、
つげ義春と同じくらい
大好きな『永嶋慎二』の本、
“フーテン”を持って行った憶えがある。

冨士夫と同じ阿佐ヶ谷が舞台で、
60年代の新宿(風月堂)に溜まる様が、
“懐かしくよみがえるのでは”
と想ったからだ。

案の定、冨士夫は大喜びだった。

「あんまり面白かったから、同部屋の隣りの奴に貸したら、そいつも大喜びでさ、退院するときに持って行っちまったのよ」

「……………………」

「ごめんな」

きっと、人の良い冨士夫が
景気よく弾けてしまったのだろう。
だからって、借りた本まで
あげなくてもいいと思うのだが。

そんな『つげ義春』や
『永嶋慎二』に共通する
私小説のような空気感は独特だ。
だからこそ、ついつい
覗きたくなってしまうのかも知れない。

それは冨士夫にも共通する世界観だった。

気分屋で、
心の許容範囲が解らないから、
その日に会ってみなければ
喜怒哀楽が読めないのだが、
良いときはトンネルを抜けた
お花畑のごとくなのである。

そんな、
冨士夫の『Over there』を聴きながら、
『つげ義春』に浸っていた。

梅雨の合間の日差しの中、
湿気った空気が
行き場を探すかのように
みどりの中を漂っている。

三十数年前、
『つげ義春』に救われているころは、
ちょうど前回のよもヤバ話、
『六人組』から離れた時期だった。

冨士夫も近くに居なかったので、
永くて短いよーな人生の中でも、
けっこうな分岐点だった気がする。

そう、ちょうど今と
似ているのかも知れない。

何かを始めなければならなかったのだ。
……………………………

そんな´88年の初夏、
冨士夫の旧友/ジニー紫から
紹介された某出版社で、
『BEATLES』のムック本を作る話がきた。

直前に『BEATLES/35周年』
を特集したN月刊誌が完売したため、
その勢いで増刊しようというのである。

『BEATLES』は大好きだが、
一冊まるごと書くほどの
知識もパワーも持ち合わしていない。

ぼぉっと、考えたあげくに
写真集にすることにしたのだ。

ロンドンにも支店がある
某フォト・ライブラリーを訪ねると、

「『BEATLES』の写真は今年ブームですからね、バジェットを決めて80枚上限使用でいきましょう」

と微妙な線を引いてきた。

考えてもきりがないので、
その場で何百枚かセレクトして
家に持ち帰り、
いっせいに床一面に広げてみた。
(モノクロの紙焼きが多かったのである)

ちょうどエミリーが遊びに来ていて、
「また、なに始めるんだよぉ~」
と、いぶかしげな目を向けてきた覚えがある。

なるべく見たことのない写真を分類し、
項目別に表題をつけて構成を考えた。

サミー前田に作品と資料をまとめてもらい、
ジョニー大倉さんにインタビューした。
(冨士夫を訪ねて10分間インタビューする状況もユニークかな、と考えたのだが、困惑する本人の顔が浮かんできたのでやめることにした)

ラフを作ってみたが、
何かがもの足りない。
生っぽくないのである。
急遽、ロンドンに取材に行くことにした。

現地に詳しいピーちゃんを呼び出し、
(当時の義姉である、ビンボーズの輩ではない)
「ロンドン取材に行かせろ」と、
出版社のデスクにねじ込んだのだ。

得意の“行き当たりバッタリ”である。

当時のノートを見ると、
ピーちゃんは夏の終わりに
ロンドンに飛び立っている。
ねじ込んでから5日後のことだった。

数日後から、
国際電話のコレクトコールが相次いだ。
アナログ時代の海外との
やり取りはけっこう経費がかさむ。
気を抜くと通信額が途方もない
数字になってしまうのだ。
当然メールもないので、
ファックスでのやり取りになる。

「アラン・ウィリアムスがつかまったけど、どーする?4万で受けるって言ってるけど」

「ジョージ・マーティンがOKだって。3万で撮影も大丈夫です」

ピーちゃんはあらかじめ、
リストアップした人物を、
現地で次々とブッキングしていった。

某フォト・ライブラリーの
ロンドン支店員の協力も功を奏したのだった。

結局、インタビューできたのは10名。

『アラン・ウィリアムズ』
※ビートルズをハンブルグに送り込んだ初期のマネージャー。

『ジョージ・マーティン』
※いわずと知れたビートルズのプロデューサー。

『ビル・ハリー』
※ジョンの同級生でマージービートの編集長。

『グラハム・キーン』
※フォト・ジャーナリスト、クリエーター。ポールの援助でギャラリーを開設したり、ジョンとヨーコと親しく交流している。

『トニー・ウォズワーズ』
※EMIのビートルズ担当ディレクター。

『キャサリン・ハリー』
※EMIアビーロード・スタジオの広報。

『エディ・ポータ-』
※ビートルズ・ファンタジーの館長。

『ジョニー・ギター』
※リンゴが在籍していた『ローリーストーム&ハリケーンズ』のギターリスト。

『ブライアン・ギブソン』
※EMIアビーロード・スタジオのテクニカルスタッフ。

『ポーキー』
※アップル・スタジオのサウンド・エディター。

である。

取材の終わりにさしかかるころ、

「ポール・マッカートニーの弟を見つけたよ、ちょっと取材費がかさむけど」

という連絡をもらったが、
一ケタ違うギャラに
断念せざるをえなかった。

考えてみれば唯一の身内である。
是非とも話を聞きたかったのだが、
この時点で経費がつきていたのだ。
今でも悔しい思い出のひとつである。

さて、その本が出来上がって
出版される年末には、
冨士夫も元気に社会復帰していた。

年明け早々にLIVE INNでライヴをし、
ジャムスタでレコーディングしながら
『TEARDROPS』の青写真を描くこととなる。

しかし、コチラは出版の仕事も
面白くて止まらない。

バンド活動と平行して、
当時、中国からの密入国で
話題になっていた
”香港マフィア”の取材に出かけている。

『おうちでゆっくり』から一転、
くるくるとハムスターのよーに動き回る
日常に切り替わっていくのだった。

……………………………

6月も後半に入り、
『おうちでゆっくり』
の日々も徐々に解除され、
世間はざわざわと動き出している。

前回の『六人組』の時に書いた
沖縄のコウジュンとのやり取りの中に、
ヨロシタミュージックの代表/
大蔵さんが出てきたのだが、
残念なことに先月の末、
亡くなってしまった。

思い出したとたんだったので
半ば呆然としながら、
去る3日に高輪のお寺まで行って、
お線香をあげてきた次第である。

大蔵さんは『六人組』が
ヨロシタミュージックに入ることで
見知ったのだろうか?
それ以前に何らかのかたちで
出会っていたのだろうか?
どーも、記憶が定かではない。

コチラとしては一方的に
広告会社いた頃から知っていた。
D社と坂本龍一さんとの
CM契約料の話が
華やかに飛び交ったからである。

この時の折衝により、
タレントや芸能人ではない、
アーティスト料金という
新しいCM契約料のカテゴリーが
生まれたのではないかと思う。

実際に大蔵さんとお会いしたときに
当時の話をお聞きしたら、
“俺を勝手にアーティスト扱いした”
と坂本さんが怒り出し、
何週間も部屋に篭城したそうだ。

“あのときはほんとうに困ったよ”
と苦笑いしていた姿が忘れられない。

仕事に関する収入と支出を
乱数表のようなカタチにした
バランスシートを持っていて、
色々と解説してくれたのだが、
残念なことにチンプンカンプンだった。

そのコチラの表情を察知したのか、

“よーするに簡単に言うとね、この世界は浮いたり沈んだりだから。良いときも悪いときも普通でいられるポジションを作ることが大切なんだ”

と言われた言葉を、
その後の人生で何度思い出したことか。

ヨロシタミュージックに
入った『六人組』は、
その後、度重なるアクシデントにより
座礁してしまうのだが、
途方に暮れていたコウジュンに対して、
大蔵さんはCM専用のセクションを
開設しようとしてくれたらしい。

まぁ、それもまた叶わないのであるが。

『TEARDROPS』になって、
京都/磔磔でライヴを行なったある夜、
ホールの中の客に混じって
突然に大蔵さんの後ろ姿があった。

京都に何らかの用事が
あってのことだろうが、
わざわざ観にきてくれたことが
とても嬉しかったのを覚えている。

そう思わせてくれる人だった気がする。

さりげない温かさが
印象に残っているのである。

いろいろとありがとうございました。

ご冥福をお祈り致します。

……………………………

それでは、
どなた様もお気をつけて
お暮らし下さいませ。

そっと、呑みに行きたい
今日この頃なのです。

(1988年〜現在)

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