156『特別な夏』

城跡の横にある小道を
ママチャリで下っていく。
見上げると深緑の景色から
刺すような夏日がこぼれていた。

「今日も35度以上の猛暑になりそうです。熱中症にお気をつけください」

どのメディアも気候の急変に
注意喚起を促している。
ため息が出るほど長かった梅雨が
じわじわと心を揺らしたかと想うと、
一夜にして真夏の熱帯夜になった。

ちょっとした油断だったのだ。
あっという間に始まった
遅い夏を意識しながら、
いつものように母親を起こしに行くと、
彼女は無表情のまま
動かなくなっていたのである。

医者が来て、救急隊が来て、
シリアスな現実が
白日夢のようにやって来た。

母親は無表情のまま、
ストレッチャーに横たわった。
カーテンで仕切られた
救急車の窓の向こうから、
蝉の大合唱が聴こえてくる。
あぶら蝉やミンミン蝉の
短い生涯を精一杯生きる叫びが、
グルグルと回っているのだ。

「微熱があるとコロナ疑いになっていまい、なかなか病院が見つからないんです」

救急隊員は申し訳なさそうに言った。
母親の脳に何かが起きたのだろう。
誰が見てもそれは明らかなのに
ちょっとした微熱が起きたため、
『コロナ疑い』で病院が決まらない。

救急車に閉じ込められて小一時間、
隊員2人が次々と連絡をとっている。
しかし、全ての病院に
断られているようだった。
“これだな、コロナの弊害って”
なんて呑気に構えている場合じゃない。
まじ、このままじゃ、手遅れなってしまう。
途方もない不安が襲ってきた。
蝉の鳴き声が耳鳴りのようになって、
頭の中に渦巻くのであった。

……………………………………

あれから10日あまりが過ぎた。
悪夢のような先々週末を振り返りながら、
三宝寺池からボート池へと渡るのだった。

ブランコのある公園に出ると、
四角い木製のテーブルベンチで
楽しげに家族が遊んでいる。

高校生だった頃、
僕はよくこのベンチで早弁をした。
母親が朝から作ってくれた弁当を広げ、
池藻や水鳥を眺めながら
学校をふけっていたのである。

学校をサボって朝から公園で食う
母親の弁当は最高だった。
母親は料理嫌いだったのだが、
何故か弁当だけは
作ってくれていたのだ。

ヒステリーで勝気な人だったが、
高校生になったくらいからは
かえって接しやすい気がした。
世間の母親像とは全く違ったので、
気楽に付き合う存在になったのである。

呑んべえだった親父が
50代で逝ってしまったたので、
母親は40代後半でシングルに戻った。
ちょうど冨士夫との仕事を
やり始めた頃だったので、
僕は障害物競走をしているかのような
日々を過ごしていたのだ。

EMIの日比谷野音のイベント
『ロックの生まれた日』に、
母親は早くから僕らと一緒に行き、
リハの合間にふらりと客席の方に
降りてきた冨士夫を見つけ、

「冨士夫!ちゃんと真面目にやりなさいよ」

と、いきなり声をかけた。

驚いた冨士夫が振り返り、

「誰だよ!?あっ、お母さんか、はい、もちろんです」

って恐縮していたのを思い出す。

バンド仕事にうつつを抜かし、
時間や生活も不規則で、
家族や経済の安定もままならぬのに、
偉そうに自由なる精神を
掲げられていたのは、
そんな母親のおかげでもあった。

大口さん(大口広司)が定期的にくれる
明治座・歌舞伎のチケットが、
母親の楽しみの一つでもあった。

「とにかく、なんでもやりたいことをやってみなさい」

と言うのが母親の口癖で、
これ幸いと流木につかまるように
流れゆくままの息子の人生を、
彼女は一体どんな想いで
見ていたのだろうか?

冨士夫の体調が思わしくなかった後年、
その最後の時間に重ねるように
母親も脳梗塞で倒れた。

母親の介護をするために
冨士夫のところには
滅多に行けなくなったが、
一度だけ冨士夫を連れて
母親が入院をしていた病院を
見舞ったことがある。

でも、耐えられなかったのだろう。

「やっぱ、俺はここで待ってるわ」

病院に着く寸前の蕎麦屋に冨士夫は消えた。

母親の見舞いを終え、
蕎麦屋に冨士夫を迎えに行くと、
誰もいない店内でベロベロになって
日本酒を呑む冨士夫がいた。

「どうだった?お母さんは」

酩酊寸前の赤ら顔で訊くのである。

母親が倒れたために
冨士夫のところに行けなくなった時、

「家族が倒れたんだから、そっちに行かなくちゃ」

と言ったら、

「俺は家族じゃねぇのかよ!」

って、吐き捨てた言葉を
もう一度飲み込んでくれたのだろう。

病室までは行けなかったが、
冨士夫なりの気持ちで
母親を見舞ってくれたのだと思っている。

退院し家に戻った母親は、
車椅子で過ごすことになった。

今からちょうど10年前のことである。

それでも、冨士夫が定期的に行く
病院だけはサポートしていた。
冨士夫のところから家に帰ると
母さんが聞いてくる。

「冨士夫はどう?」

「頑張ってるよ!」

そう聞くと安心するようだった。
自分の闘病に重ねていたのかもしれない。

7年前の春に、
母親をショートステイに行かせて、
家族で旅行に行こうとしたことがある。

娘が中学に入り、
仲の良い友達と離れたので、
その子と娘の思い出作りに
家族が人肌脱ぐ格好だったのだ。

表面上は平静を装っていた母親だったが、
数日間でも預けられたくなかったのだろう。
旅行に行く当日の昼過ぎ、
施設に着くなり39度の高熱を出したのだ。
原因は不明であった。
当然の如く入所は断られ、
家に戻されたのだが、
家に戻る頃には平熱になっているのであった。

これで、家族が人肌脱ぐ旅行は中止になった。

娘が可哀想だった。
一緒に行くことを
楽しみにしていた友達も、
残念だったに違いない。

さりとて、母親を責めることもできない。
娘もグッと我慢しているようだった。

だから、
改めてお盆に行くことにした。

娘の友達に聞いたら、
その頃が都合いいと言う。

「それじゃ、8月14日に再出発ね」

全員が納得して
2泊3日の旅行日程を組んだ。
申し訳なさそうな母親も、
意を決して強くなろうとした節がある。
それからは精神的な熱は
出さなくなったのだから。

2013年の8月14日、
その待ちに待ったお盆は、
猛暑と共にやってきた。

強くなった母親を
5日間の予定で無事に施設に預け、
娘の友達も我が家に来て、
いざ出発というタイミングだったのだ。

突然に吉田くんから電話がかかってきた。

「冨士夫が亡くなったよ」

頭が真っ白になった。

「今はちょっと」

「旅行にでも行ってるのかい?」

察しのいい吉田くんは、
歯切れの悪いコチラの事情を
察知したかのように言葉を続けた。

「こっちでやっとくからさ、まずは大丈夫だよ。連絡するからね」

その言葉に甘えることにした。
まさに出発するところだったのだ。

本当は、即座にキャンセルして、
何がなんでも駆けつけなくては
ならないのであるが、
嬉しそうに出発の準備をしている
娘たちを見ていると、
春の悪夢の繰り返しは到底出来なかった。

冨士夫の葬儀に間に合うように戻り、
線香をあげさせてはもらったが、
冨士夫は舌打ちをしていただろう。

なんとも最後まで不甲斐ない
ザマだったのである。

それから後、
母親に冨士夫亡き事実を
知らせることができたのは
いつだったのだろう。

「冨士夫はどう?元気なの?」

という問いかけに、
しばらくは嘘をついて過ごした。

「変わんないよ」

母親が気落ちしてはいけないと思い、
言えなかったのである。
いつ本当のことを伝えたのか
今となっては覚えていない。
僕は嘘つきだから。

……………………………………

ボート池を渡り駅も過ぎ、
西武線の高架に沿って走る。

“ママチャリで猛暑を行くのは限界があるな”

って思えて来る距離にJ病院があった。

病院の受付に行き、
検温をしてコロナ疑いじゃない
証明をしてから母親と会う。

基本はどの病院も面会禁止なのだが、
どういうわけか僕は会えるのだ。

個室で無表情に固まって、
管で栄養をとっているだけの母親は、
この10日間でグッと
持ち直したように見える。

今日は、「とにかく頑張ろうよ」
という励ましに、
うなずいた気がしたのである。

10年前は母親の手を握るなんて、
小っ恥ずかしくて
考えられないことだった。
それが介護をしているうちに
ボロボロと崩れていき、
今ではどっちが親なのか
わかりゃしない気がするのだ。

「また明日来るからね」

そう言って病院を後にする。
今年の夏はずっとそうしているのである。

気がつけば冨士夫の誕生日が過ぎ、
7年目の命日も過ぎてしまっていた。

ママチャリで来た道を戻る。

駅を抜け、ボート池を過ぎ、
三宝寺池の城跡の所まで来ると、
日暮れが早まって
きているのがわかった。

深緑の屋根におおわれた小道は、
すでにうす暗く、
夏終わりの覚悟を知らせてくれる。

立ち止まって、
降るような蝉の合唱に向かって、
耳を傾けてみた。
蝉の中に新たに、
ひぐらしの声が
加わっているのがわかった。

“カナカナカナカナ”と、
今日という一日が
終わるのを教えてくれている。

過ぎ去って行く同じ日を
求めてはいけない気がした。
どんなに昨日とは
うって変わったとしても、
新たなる日の始まりなのである。

「俺は家族じゃねぇのかよ!」

大声で鳴く蝉たちの声が
森の中に木霊していた。

(ずっと昔から今)

 

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