124『新大久保EARTHDOM 伊藤耕追悼企画 「KEEP ON ROCK&DANCE 耕もね!」』太陽のまばたき ブル-スビンボーズ

大久保通りはエキゾチックである。
韓流系の看板やネオンサインが立ち並び、
少し古い懐かしいタイプの街路灯が、
訪れる人びとの顔を
黄色っぽく照らしているのだ。

もともと靖国通りから北側は、
戦後、台湾人華僑が商いの種を植え、
独特なるアジア花を開かせた
一大歓楽街だといわれている。

四谷・牛込・淀橋の三区が合併し、
新宿区が誕生したのは1952年。
歌舞伎町の興業地化を
狙っていた東京都は、
新宿区役所を
そのど真ん中に建設するのだ。

そこは、
東口のヤミ市を営んでいた
在日外国人たちが、
まとまって移転した
青線地帯の目と鼻の先だった。
(ココは後にゴールデン街になる)

台湾人事業者たちは、
同郷コミュニティによる
独自の金融システムをバックに、
続々と歌舞伎町のビル群を建設していき、
そこでキャバレーやクラブなどの
風俗営業を展開し、
ビジネスを拡大していったのである。

かたや、
日本に留学していた
インテリ在日台湾人たちは、
クラシック音楽を中心とした
喫茶店文化を新宿に作り出し、
“ジュク文化”のひと時代を
形成していくことになるのだ。

歌舞伎町が、いや、
新宿が独特な風情を成しているのは、
そういう歴史に起因しているところが多い。

「ハッシーとは、まだ付き合いがあるんでしょう?」

先日、何十年振りかで会った
もと東芝EMIのMディレクターに
改めて訊かれた。
ハッシーとは、当時の東芝EMIの
制作を仕切っていた部長の呼び名である。

「えっ!? まだ付き合いがあるの?」

同じく、
その日のコンサートの招待に
応じて来てくれていた、
もと東芝EMI宣伝部の
K氏も面食らっている。

2人が驚くのも無理はない。
山口冨士夫には“演歌心がある”と、
不思議なセンスで惚れ込んで、
東芝EMIに引きずり込んで
くれはったハッシーとは、
いまだに呑み友達なのだ。

少なくとも
10歳は年上のこの先輩は、
新宿歌舞伎町の
チャイニーズ・クラブが
十八番(おはこ)だった。
星の数ほどはないが、
世界中の国を合わせた数くらいは
あるだろうクラブを、
かつては2人して
せっせと飽きもせずに
パトロールしていたものだ。

そこで知り合う
台湾、上海、北京、福建から
シンガポールまでの
女性やら、男性やら、または、
性別を超越した人たちに、
たくさんの歌舞伎町ヒストリーやら、
遊び方を教えてもらい、
へべれけに酔っぱらいながら、
真夜中の区役所通りを千鳥歩くのだ。

鼻歌混じりに職安通りも通り越し、
新大久保の裏通りにある
ゾクゾクするような暗い路地を抜けると、
再び繁華街に出ることができる。

小滝橋通りと明治通りとをむすぶ、
この約600メートルもの商店街は、
大久保通り商店街と呼ばれ、
ご存知の通り、今ではすっかり
コリアンタウンとして有名になっている。

その中程にあるガストで、
始発まで時間をつぶすことにする。
バブルだったころの深夜は、
タクシーは全くつかまらず、
終電をのがしたら
そこで夜光虫になるしかなかったのだ。

腹も減っているので、
目玉焼きののった
ハンバーグなんぞを食べていると、
派手なベルサーチのシャツをまとった、
台湾ゲイのPanちゃんが、
恋人のイケメンを連れて現れる。
そこにシンガポール人のJudyも、
お店終わりに常連客を伴って来て、
何の事はない
さっきまで呑んでいた
深夜の店の再現じゃない、
なんて大笑いする事がよくあった。

早朝の大久保通りを
新大久保駅に向かって歩く。
自転車に乗ったイラン人男性が、
舗道に立つ南米の娘たちから
その日のショバ代を徴収するのを
横目に眺めながら、
家路へと向かうのだった。

それが、僕の知りうる
かつての新宿歌舞伎町から
新大久保界隈の景色だ。
20〜30年も前の風景であるが、
今もどこか猥雑で、
アジアの匂いのする
心地よい刺激的な街なのである。

………………………………

10月16日の午後6時半、
その新大久保駅に降り立った。

とたんに聞こえるクラクションの音に、
救急車のサイレン音が重なる。
無秩序な雑多な人波からは
韓国語や中国語が飛び交っているのだ。

“ココはもはや日本ではないな”

ベトナム人も随分と増えているらしい。
そんな情報を思い出しながら、
アジアの若者の間をすり抜けて歩く。
間もなくしてミニストップを過ぎたあたりで、
仲間っぽい人影を発見した。
そのわきにある狭い階段を下りて行くと、
ピーちゃんとマーチンが
壁にもたれてタムロっていた。

「トシ、久し振り」

マーチンが30年振りの笑顔をよこす。
何も変わっちゃいない、
ウィスキーズの時の
想いがよみがえってきた。
するとジョージが相変わらずの
ニヒルチックな姿で、
僕らの間をすり抜けて行くのだった。

「今日出る“イトウコウサンズ”って、面子は誰なんだろう?」

ピーちゃんに訊くと、

「あっ、それ、俺たち(ビンボーズ)だから」

って、猫背の背をより丸くして答えていた。

今夜は、
伊藤耕追悼企画 「KEEP ON ROCK&DANCE 耕もね!」
のライヴを観に来たのだ。

アースダムはライヴ会場と
Barスペースに分かれている。
僕なんかは、寄る年波で
Barに居る時間が
長くなっているような気がする。
そこで気の置けない仲間と、
お互いの顔色と
近況を交わし合っては、
思い切ってステージを観に行くのである。

ステージのトップは『マンホール』だ。
この、突然に落っこちてしまいそうな、
オソロしい名のバンドは、
天才Twitter→くやさんが率いる
スリーピースのビートバンドである。

「これでもかぁ!」
と迫って来る臨場感たっぷりのビートは、
ベースなしでもズンズンと伝わってくる。

「コウさんが歌ってくれって言うから、思い切って歌ったら、コウさん、歌の途中からどっか行っちゃった」

というMCのクダリが面白かった。

継続は力なり、
まさにぐいぐいと行く
ビートバンドである。

お次は、
大好きな『The-Ding-A-Lings』だ。
オスのギターを聴くと、
確実に冨士夫を思い出す。
残念ながら3人になってしまったが、
こうたろうも参加してくれていたのだろう。
パワーは健在だった。

♪アソボウぜぇ?♪

を聴く為に、
生き抜いている日もあるのだ。
淡々とした物腰とは裏腹に、
コウに対する深い愛情を感じる、
そんなステージだった。

さてさて、のっけからパワフルに、
客までがバンドと一体になるのが、
『THE TRASH』の真骨頂!

振り上げる拳もドッかーんと来て、
思わず壁際に後ずさってしまった。
(前列の客の渦の中でビックリしたので)

とにかく凄まじいばかりのエナジーである。
気持ちいいくらいにカッコイイ。

『よもヤバ話』のスポンサー、
マー坊さんを乗せるわけではないが、
あんだけ弾けりゃあ、
ニコニコギターも安泰だろう。

ここで、イベントもピークを迎えるのだった。

トリは、言わずと知れた
『イトウコウサンズ』こと『ビンボーズ』。

ところが、この夜は、
謎のヴォーカリストの登場で、
『フールズ』の曲目ステージは、
うっかりと、最高に盛り上がってしまった。

自らを“素人”という、
このヴォーカリストは
一体何者なんだろう?
素性を知るためにも、
どこかで再登場を願いたい。

『フリーダム』で、
若き日の快楽を思い出し、
何とも言えないコウの深い詩で、
これからの足元を見せられた、
そんな想いの『イトウコウサンズ』
のステージだった気がする。

全てのステージが終わり、
Barスペースで再び佇んだ。

知った顔が笑っていた。
知らない顔も笑っている。
とにかく、みんなが
愉しかったのだ。

理屈や面倒な事柄は全て後回し、

「とにかく、たった今を楽しもうぜ!」

目には見えないコウの姿が、
この夜を仕切っている想いがした。
彼に背中を押されて
奔走している安井が、
とっても誇らしく思えたのだ。

………………………………

2013年の梅雨、
冨士夫の最後のステージも
アースダムだった。

「やっぱり28日のステージはやめた方がいいんじゃない?」

湿った季節のせいか、
やたらと痛がる冨士夫に
改めて進言したのだ。

「冗談じゃねえ!せっかくジョージが呼んでくれてるんだ、俺は演るよ」

ジョージが誘ってくれていたのだ。
『藻の月』のゲストとして、
2~3曲演奏する内容だったのである。

「1曲は延々とサイケなギターを弾きたい」

という冨士夫の要望もジョージに伝えた。

「だったら、酒はやめよう。演奏も何もできなくなるからさ」

そう言い残して、
その日は帰宅の途についた。

しかし、
来たる6月28日のアースダムでは、
冨士夫は実に何にもできなかった。
意志や熱意とは真逆に、
身体が全く動かなかったのである。

結局は、コレが冨士夫のラスト・ステージとなった。

現実は映画やマンガとは違う。
悔しい事もヨシとしなければならないのが
僕らの人生ならば、
どこかで空しい想いの中に、
ほんの少しでも、
絵空事を入れたくなるというものだ。

これよりも少し前の
アースダムのステージでも、
冨士夫は空回りした。
同じフレーズを繰り返し、
どこを演っているのかも
定かではない状態になったのである。

その時である、
客席にいたコウが突然にステージに上がり、
全ての空気を持って行ったのだ。

コウは、ハンドマイクを握ると、
派手な手振りで客をあおった。
すると瞬間、
冨士夫がキースのように腰を落とし、
コード・カッティングを決めたのだった。

それが、奇しくも冨士夫とコウの
最後の絡みとなった。

音楽やステージングの輝きは、
一瞬の出来事だと想っている。
例えば、それが想像もしなかった
絵空事だったとしても、
僕らの想いの中では
永遠に存在し続けるのだ。

たまには、
伊藤耕のように人生に向かって
本気で叫んでみようかと想う。

♪人生なんて
あの太陽のまばたき
ほんの一瞬 命はじけて
あの 太陽まで♪

(1990頃~現在)

 

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