024『ぶっつぶせ!』どうしようかな

024 『ぶっつぶせ!』どうしようかな

新宿・歌舞伎町にあった
『サンダーバード』の話から始めようと思う。
1970年の秋も深まりつつある
ちょうど今と同じような季節、
僕は、中三の遊び盛りだった。
周りは受験モード一色だったが、
何故か僕には、遊ぶことしか考えられなかった。
その夏は代ゼミに通ったのだが、
結局は、歌舞伎町の純喫茶『王城』や『スカラ座』に
たむろって過ごした。
そこで見つけたのが、対面にあった
ロック喫茶『ライトハウス』と、
その地下にある、ゴーゴー・バー『サンダーバード』。
中学生だったのと、受験生だったのと、
親が区の補導議長を務める社会科の教師だったので、
“この時期にそんなとこ行くなんて、とんでもない”
っと、思ったりもしたのだが、
そんな考えは好奇心の彼方に消えて行った。
秋になり、毎日が偏差値一色に取り憑かれたころ、
僕は、思い切って塾をさぼり、
新宿の歌舞伎町へと勇んだ。

ロック喫茶『ライトハウス』のよこにある
暗く狭い階段を降りる。
入れてくれるかどうか、動悸が早まったが、
暗がりだったし、背も高かったので、
中学生だとは思われなかったのだろう。
店員のペンライト合図に僕は正式な客となり、
店内に入ることができた。

ついに憧れの『サンダーバード』に来た。

この数カ月間の妄想では、
小山ルミがお立ち台でヒラヒラと踊り、
バンドの演奏に合わせて
皆が“ゴーゴー”を踊っている。
“コレじゃ、まるで『ビートポップス』じゃねぇか !? ”
っというイメージであった。

ところがどうだ !?
扉を開け入ったとたんに、
ちょっと違う !? って、心の中がざわめいた。
暗いのである、加えて、すえた臭いがする。
そこに、いきなり“ツン”っとした異臭が鼻をついた。
見ると、数人の男がビニール袋に顔を埋め、
ヤドカリのように丸くなっている。
臭いの主はトルエンだった。
その異様な光景に、かるく殴られながら、
ホールの奥へと進む。
そこかしこで、ヒラヒラと蝶々のように舞っている
数人の姉さんのよこをすり抜け
ステージ際の壁に貼りついた。

ここでやっと落ち着き、
店内を眺めることができた。
よく見ると、数人の客しかおらず、閑散としている。
暗く、危ない空気とミラーボール。
どう見ても『ビートポップス』では、なさそうだ !?
っと、同時に“ゾクゾク”っと、きた。
イケナイ場所に来た感動が沸き上がる。
何でも初めてのときは甘美なものだ。

突然、「踊らないの?」
と、声をかけられた。
気がつくと、蝶々のように舞っていた姉さんが、
目の前で羽をパタパタしている。
少しとろい目線と、ろれった声…。

「あっ、ぼくは、おどらない」
っと、言ったつもりだったが、言葉が出てこない。
それほどまでに緊張して固まっている自分に驚き、
あわてて手をよこに振って合図した。

“クスッ”っと、笑っただろうか、
姉さんは身をひるがえして
アッと言う間に、もとの場所に戻ってしまった。

ステージは『ジャガーズ』だった。
テレビとはまったく違う『ジャガーズ』。
『スリー・ドッグ・ナイト』の編成で、
カヴァーを演っている。
ストロボライトと生音が覚醒して、
視覚と聴覚の異常を快感に化えている。

曲間にヴォーカルの『岡本信』が、
ステージ前で踊っている
さっきの蝶々を捕まえた。
「ねぇ!どっから来たの?」
しゃがみ込んで話しかける。
嬉しそうに羽をばたつかせる姉さんに、
「終わったら、どっか行こうぜ!」
と、決めた。

……僕は、ずっと、この場面を覚えている。
人間っておかしなものだ。
若い時に覚えた感覚は一生続く。

だから、冨士夫から『ダイナマイツ』のころの
エピソードを聞くたびに、
僕はこの『サンダーバード』の光景を思い浮かべた。
自分のドキドキ感を思い出しながら、
『ダイナマイツ』を想像していたのだ。

そして、『サンダーバード』は、
現実に『ダイナマイツ』の解散ステージが
行われた場所でもある。

1969年の12月の終わり、
僕が行った、約1年前に『ダイナマイツ』は
『サンダーバード』で解散した。
客は十数人ほどしかおらず、
寂しい幕切れだったらしい。
ベースの吉田クンは、すでに辞めていて、
七三に分けた髪型でステージを見ていたと。
ヴォーカルも冨士夫がとっていたみたいだと言うから、
瀬川さんも演ったり、演らなかったりだったのかな?
と、想像する。

いずれにしても冨士夫は、
この『サンダーバード』のステージを最後に
『ダイナマイツ』を辞め、
次のシーンに行くこととなった。

「冨士夫は、しょっちゅう『セツ(※1)』に来てたよ」
と、ケンゴ(※2)が言う。
まだ『ダイナマイツ』の印象を引きずった冨士夫が、
周りの視線を気にしながらも
『セツ・モード・セミナー』の校舎の中を
闊歩する姿を想像してしまう。

そう言えば、当時『富士オデッセイ(※3)』を企画した
『ユニプロ』の代表でもあったMさんも言っていた。
「アイドルが『風月堂』に出入りしているって僕なんかは見てた。
グループサウンズだったからね、冨士夫は」と。

その『ユニプロ』も新宿にあったということから、
様々なアーティストはもとより、
『ダイナマイツ』や『モップス』まで出入りしていた。
京都でアート活動していたキーヤンこと
『木村英輝(※4)』さんともつながりがあり、
それが、後の『村八分』の源流になっていくのだと思う。

さてさて、それら総てが混ざりあって、
グルグルと冨士夫の周りに渦巻いている。
あとは核となる人間が現れればいい。

そこに登場するのが“チャー坊”だ。
サンフランシスコから帰国した途端に、
周りの意識を“スッ”と 、持って行った人物。
ドラッグからカルチャーまで、
最先端のほんまもんをプンプン匂わせ、
会う人間を片っ端から煙にまく妖艶な男…だ。

なんだかんだ言っても、
冨士夫もイチコロだったのではないか !!?
(そりゃあ、ドラッグも持っていただろうが…)
“チャー坊”が現れなければ、
素人だけでバンドを作ることもなかっただろうし、
高校を卒業したばかりの青ちゃんが
ギターを手にすることもなかったのかも知れない。

でも、『村八分』は、とどのつまり、
冨士夫とチャー坊だ。
あるいは、
チャー坊と冨士夫だ。
冨士夫の音楽性とチャー坊の芸術性。
どちらから見るかで見方が分かれる。

『ぶっつぶせ!』のテープが、
大鹿村の知り合いづてに冨士夫のもとに届いたとき、
冨士夫はとても喜んだ。
何しろ、『村八分』のいちばん良い
エッセンスが入っているころだからだ。
テッちゃん(浅田哲)の加入により、
バンドのバランスが保たれ、
ユカリ(上原裕)のドラムスで、
リズムが格段に安定した。
青ちゃんも冨士夫の指示通りのベースが
弾けるまでに上達していたし、
なによりも、チャー坊が愉しそうだ。
そう冨士夫は言っていた。

「ある日、降ってきたんだよ、このテープがさ」
とも言ってるように、
あの時代の、こんな良質の録音物が見つかるのは珍しい。

1971年のあの時代……、
“壁に飛び散る血しぶきで革命とつづる”
……という歌詞。
“こんな世の中、ぶっつぶせ!”と、続く。

後に、チャー坊は、
“右も左もやりなおし”って歌っているが、
それは、まさに現在にも通じる暗示なのだと思う。

最後に、余談だが、コレを書いていて、
『村八分』をよく見に行っていた
中学の先輩Kを思い出した。

その一級上の先輩に、
「1971年の北区公会堂って覚えてる?」
って聞いてみた。

「そこかどうかは確かじゃないけど、
そんなところにも行ったような気がするよ。
そのころは、とにかくイベントばかりで、
いろんなバンドが出るんだ。
だけど『村八分』だけは毛色が違う感じ。
他のバンドがみんな、『ほ乳類』なら、
『村八分』だけは、『は虫類』って感じだよね。
とにかく『村八分』だけは、他と違ったんだよ」
っと、言う。

…一級上の先輩の話を聞き、僕は後悔した。

『サンダーバード』で『ジャガーズ』を
見てる場合ではなかったのだ。

『北区公会堂』で『村八分』を見て、

“こんな世の中、ぶっつぶせ!” ば、
良かったんだ、……ってね。

(1969〜71年)

(※1)『セツ・モード・セミナー』
イラストレーター、広告、出版界、ジャーナリズム、ファッション界、美術界、実業界に多数のクリエーターを輩出し続けている、新宿にある美術学校。

(※2) ケンゴ
もと『スピード』のヴォーカリスト。当時は『セツ・モード・セミナー』の学生で、青ちゃんの同級生でもあった。

(※3)『富士オデッセイ』
1970年 8月15日から8月22日まで、静岡県の伊豆富士見ランドで開催されるはずだった、幻のロックフェス。しかし、それは立ち消えになった。ローリング・ストーンズやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ボブ・ディラン、ピンク・フロイド、ドアーズなど名だたるロックミュージシャンが出演予定者として名を連ねた。

(※4)『木村英輝』
「村八分」も手がけたロックプロデューサー、京都大学西部講堂でのロックイベント「モジョ・ウエスト」、フランク・ザッパのコンサートをプロデュース。また、円山野外音楽堂でギタリストのジェフ・ベックらを招聘したワールドロックフェスティバルも手がけた。 1970年代後半から1980年代は、広告やポスターのデザインも含めたコンセプチュアルデザイナー、また、様々なイベントの「仕掛人」として活躍する。最後まで、冨士夫を包むように気にしてくれていた「優しい人」でもある。

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