128『しつこく・その3 /大阪“BAMBOO”』“LIVE AT SUM”

冨士夫が我が家に居るころ、
しょっちゅう『村八分』の話をしていた。

極限まで贅肉を削ぎ落として
創っていったという音楽性や、
LSD修行(?)のような
ドラッグ浸けの日々。

民族主義のフィールドで育った
チャー坊の日本感と、
自らの生い立ちを意識した
冨士夫の中に宿る日本が
想像の中で重なっていく。

「もう『村八分』は、(終わりにして)いいんじゃない!?」

そう言いたくなるほどに、
冨士夫の心は
『村八分』だった時代に
留まっていたような気がする。

それほどの大ごとだったのだろう。
10代の終わりから
20代のはじめにかけて、
命までを削った感性は、
決して他人が口出しする領域ではない。

それに比べて、
1979年の『村八分』再編成は、
完全にトーンダウンしている。

30代にさしかかる心には、
新たに色々な大人の
物差しが備わっていて、
実験的だった若いロック魂の勢いよりも、
面倒くさい駆け引きの方が
優先されてみえるのだ。

この時のチャー坊は
バンドを想い通りにしたがった感がある。
冨士夫はそんなチャー坊に
とまどっていたのかも知れない。

当時、『村八分』を誘っていた
東芝EMIの石坂敬一氏から、

「チャー坊と冨士夫さえ来てくれたら、
メンバーはこちらで気の合う人を探す」

なんて言われたチャー坊は、
新生『村八分』の新ギタリストである
ミッキーにこだわっている。

そのミッキーこと松田幹夫さんは、
京都でも有数のギタリストで、
チャー坊にとっては、
冨士夫に取って替わりうる
切り札でもあったのである。

…………………………………………

「ミッキーはさ、冨士夫ちゃんと2回演ってるねん、この店でさ」

ココは“BAMBOO(バンブー)”。

大阪難波千日前にある
隠れ家のようなカウンターBarである。

高濱(たかはま)さんが、
新たにミッキーと冨士夫の
セッションビデオを映しながら
解説を始めた。

「“冨士夫ちゃんがミッキーと会いたがってるよ”って電話したら、京都からミッキーが バァーっとクルマで飛んできてさ、2人でセッションしたねん 」

名前だけは知っていたが、
ミッキーさんを意識して
見るのは初めてだった。

ビデオの中で微笑んでいる
ミッキーさんは、
意外なほどハンサムで若々しい。
冨士夫がギターを弾く仕草を
まるで愛おしむかのように、
リズムを合わせているのだ。

「俺なんかが2人を見てるとな、お互いにずーっと意識しながら別々のバンドで演ってきた感じやねん。だけど、それまで2人っきりで演ったことはなかった。“俺たち、2人で演るのはこれが初めてだな”とか冨士夫ちゃんが言っちゃってさ、それがまた、めっちゃいい感じやねん」

2人とも、チャー坊に
気を遣っていたのだ。
チャー坊の存命中は、
決して2人だけで
会うことはなかったという。

「ミッキーは良い奴でね、良いギターを弾くしね。だから、奴が逝ったと聞いたときにはメッチャ、ショックだったねん」

ビデオでは、
2人がオーティスやサムクックを
演奏するシーンが展開されている。

「ほんま 考えられへんよ、貴重なシーンやでえ。冨士夫ちゃんもビックリしてたと思うわ、ミッキー(冨士夫のギターに)ついてきてるって。終わった後に冨士夫ちゃんが言ってたもん、“俺、ミッキーと一緒にやろうかな?”って。それくらい気がおおてるねん。´79年の時は若かったし、あれは村八分だったからな。こうゆう感じ(´90年代)とは全然違うねんから」

改めて時代やタイミングの無情さを感じる。

1979年の『村八分』再編成時は、

(当時、入院していた)
「ミッキーの退院を待つ」
とチャー坊は返事をして、
東芝EMIからの
「チャー坊と冨士夫さえ来てくれたら」
という誘いに
待ったをかけたのだという。

だがミッキーの退院のめどは立たず、

『村八分』再編成は、
志半ばで頓挫したのである。

「ミッキーと冨士夫は、ウチで2回演ったねん」

と高濱さんはもう一度繰り返した。

「冨士夫ちゃんのリクエストでもう1回2人は演奏したんや。だけど、3回目のリクエストの時にミッキーが来なかった。それで冨士夫ちゃんは怒っちゃったってわけや。“もう、あんな奴、知らねえよ”ってな、わかるやろ?!そういうふうになったら、冨士夫ちゃんはもう終いやねん。ちょうどミッキーの身体の調子が良くなかった時期だったから、きっと具合が悪かったんやな。だったらそう言えばいいのに、ミッキーは言わんから誤解されるんや。ほんまの事は知らんよ、ミッキーから聞いたわけでも何でもないんやから。でも俺はそう思うてるんや。全体の感じからしてな、そんなことだと思ってる。だけど、冨士夫ちゃんはそれ以来、2度とミッキーの名前を出さんようになった。そうゆうとこあるやん、嫌いになったんや、ある意味心が狭いねんな(笑)」

ビデオではミッキーが帰り、
1人になった冨士夫が
延々とブルースを演奏している
場面が展開されていた。

「しかし、ギター1本でこんなにグルーヴ感を出せる人は他におらへんわ。日本語の韻を踏むのに5年かかったってお人やで(笑)。レイ・チャールズの曲でさえ日本語で歌っちゃうんや(笑)。ホラッ、聴いてみぃ。それでも言葉が厳しいんやんか」

画面では冨士夫が、
レイ・チャールズの曲を
独自の解釈で歌っていた。

「即興の替え歌が得意やねんな、ソレについても“5年かかったよ”って、真顔で答えるんや。何でもかんでも5年なんやなって思ったけど(笑)、まぁ、ええわ。その替え歌がまた、的を得てるねん。下手な訳詞より良いねん」

そう言いながら、
高濱さんはウーロンハイを
お替わりしてくれた。

もうどれくらい呑んだのだろう?
山口冨士夫のビデオ・コンサートも、
アレコレ含めて5時間以上も
見続けていたのだ。

「冨士夫ちゃんはある意味、もめ事が好きだからね。いい奴なんだけど意地悪やねん。人の傷跡を赤裸々にえぐるからね、そこんとこもホント、ある意味、人間らしくて面白いねんけどな。これを言っちゃおしまいだろうってところをえぐるねん、ほんまえげつないやっちゃ(笑)」

加部さん(加部正義)とも、
短期間であったがバンドを組んだという。

ビデオ画面は、
大阪『ビッグキャット』での、
加部さんとの演奏シーンに
切り替わっていた。

「冨士夫ちゃん、このバンドで来たときは本番でも怒ってたよ。“お前なんか帰れ!”って言うんや、“ギター置いて帰れ!”ってね。加部さんじゃなくて、他のメンバーに怒ってたんや」

それでも、ツアーの途中で
帰ったのは加部さんだったという。

「なんでもめたのか知らんけどね、たぶんギャラとちゃう?各パートでフレーズを間違えたら、1000円ずつ差し引くんだって、冨士夫ちゃんが得意気に言っとったから。“でもさ、それじゃ、冨士夫ちゃんのギャラは誰が決めるん?”って訊いたら口ごもってたけどな(笑)」

「加部さんは曲を覚えない(笑)」

ちょうど店に居合わせた
音楽通の常連客が間の手を入れた。

「でも、できるんやろね」

「冨士夫はまったく手元を見ないでギターを弾く」

「そりゃあ、天才的なほどにな」

そんな会話がピンボールのように
しばらく廻った後に、
僕らはおいとますることにした。

深夜0時閉店と聞いていた店も、
2時間近く延長していたからだ。

「大阪に冨士夫ちゃんが来ないようになったのは、亡くなる3、4年前からかな?だから、そのくらいからが全くコチラでは、様子が解らないわけや」

会計をしながら、
寂しげに高濱さんが呟く。

釣り銭を勘定しながら、

「最近はね、思うワケ。何をみんなこだわってるんや?ってね。´70年代でもあるまいし、って事や。何人(なんびと)がドコでどうしたこうしたって、そんなもんどうだってええし、『君が代』がさ、イスラエルの旧約聖書の中に関係してるとかなんとかなんてさ、どうだってええし、民族紛争に関してもや、DNAとかルーツをたぐっていったらな、行き着くところはみんな一緒や。一人のアフリカの女の人に行き着きましたとかさ、なんや、元はそこやんけ、なんてな。自分とこの民族を主張するあまり、紛争は起こるしってな、“たいがいにしいや!”って思うわけや」

と、大演説の後で、

「釣り銭とか、いるか?」

「はい」

「ほうか、やっぱりな。ほな、気いつけて帰りや」

…………………………………………

オモテに出てみたら、
すっかりと深夜であった。
午前2時近くである。

「さあ、いよいよ、なんか喰いに行こうぜ」

空きっ腹は玄界灘を越えて、
荒海のごとく麻痺していたが、
このまま眠りにつくのはしのびない。

すると、空気を読みつつ、
一人っ子の気質が勝ってしまうKoくんが、

「もう一軒、行きたいところがあるのですが」

と、のたまう。

“この期に及んでか?”

とは思ったが、
根が優しい長男気質の自分は、
年の離れた弟の希望だと想い、
聞いてあげることにした。

しかし、とにかく酩酊していたので、
ドコをどう歩いたのか、
まったく解らないままに、
30分以上も彷徨ったあげくに
灯りに飛び込む虫のように入った店が、
奇跡的にお目当ての
『FANNY MAE(ファニーメイ)』だったのだ。

ローリングストーンズの曲から取った、
ローリングストーンズの店である。

当然、冨士夫のことはよくご存知で、
溢れんばかりの逸話を
聞いた気もするが、
申し訳ないことに全く憶えていない。

ただひとつ憶えているのは、
飲み過ぎた亀のように
カウンターチェアから
転げ落ちたKoくんが、
仰向けに転がりながらも
不気味に笑顔だったことである。

時間の観念さえも忘れながら、
再び僕らは店を出た。

もはや、何時かも不明なのだ。

ホテルに向かいながら
ローソンで弁当を
買ったのを憶えている。

それをホテルのベッドで
ガツガツ喰ったのを憶えている。

そこまでで、寝た…らしい。

…………………………………………

翌朝はすぐに来た。

ハッキリとした二日酔いで、
大阪もへったくれもありゃしないのだ。

それでも、もうひとり、
´93年当時に冨士夫を
何週間も自宅に泊めていただいて、
ライヴまでセットしていただいた
T氏にお会いしなければならない。
(高濱さんと同じパターンが他にもあったのである)

T氏に会い、心斎橋近くの喫茶店で
当時のエピソードをうかがった。

撮影していただいていた
貴重なる映像があるというので、
それは、直接エミリに
送っていただくことにして、
詳しくは映像を見てから
後日、お聞きすることにしたのだ。
(これでまた大阪に行く理由ができる)

「たこ焼きを喰いに行こうぜ」

大阪のほんまもんの“たこ焼き”を
喰おうと決めていたのだ。
難波千日前通りに戻り、
どの店に入ろうか品定めする。

それにしても日本語が聞こえてこない。
東京の大久保界隈もそうだが、
難波千日前はそれ以上である。

中国、韓国、東南アジア諸国の
観光客がほとんどなのだろう。
噂には聞いていたが、
想像以上の賑わいなのだ。

僕らはその中でも、
お手軽に腰掛けて食べられる、
外からも吹き抜け造りの店を選んだ。

実は、今回の大阪行きでは、
『たこ焼き』に固執してたのだ。
“外はカリッと、中はとろ〜り”
本場大阪の『たこ焼き』を味わいたい。

「いよいよ、たこ焼きが喰えるな」

隣りの席にはスカーフをかぶった
中東の女性が2人、
たこ焼きの出番を待っている。

店頭では、インド系ファミリーが
興味津々で
たこ焼き作りを覗いていた。

“あの親父は会計士だな”

なんて、インド系ファミリーの
真ん中に陣取る父親の正体を
勝手に妄想しているところに、

「ハイ、たこ焼き」

と、目の前に『たこ焼き』が到着した。

“昨日から待ってたのに、ずいぶん、遅かったじゃない”

なんてつぶやきながら、
アツアツとろけるなんばの
美味しいたこ焼きが、
いま、お口に入りました。

“外はカリッと、中はとろ〜り”

なんて、ガブッと一気につぶしたら、

「あっ、熱、熱、!!!」

あろうことか、

とたんに、
口の中を火傷したのです。

(1999年〜今)

PS/
【山口冨士夫『LIVE AT SUM(2CD)』12/12(水)リリース⚡️】
99年大阪での未発表曲&カバーも含む未発表ソロライブを収録。
💿初回限定特典CDR付き
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