134『チャー坊と出会った日 』もうひとつの村八分1/村瀬シゲト

「サンフランシスコに
日本町ってのがあるんだけど、
ある日、そこのスーパーに行ったらさ、
シャーロックホームズが
着ているようなマントを着込んで、
尺八を持っている
ヘンな奴がいるんだよ。
しかも裸足なんだ。
それだけで、すごいだろ!?(笑)。
そいつがコッチ向いて、
“ニター”って笑うわけだ。
そんな可笑しな奴は
いかにシスコでも
滅多にお目にかかれるもんじゃない。
だから、俺は、
思わず声をかけちまったよ。
なんだか好奇心の方が
勝っちまったってわけ。
“ウチに来るかい?”って訊いたら
やっぱり、“ニター”って笑うんだ。
そこからさ、すべてが始まるのは」

それが、チャー坊である。
チャー坊はまだ
18か19歳だった。

1969年のサンフランシスコは、
滅多に無い華やかな時代に、
世界中からの若者たちが
集まって来ていた。

チャー坊もまさに
その中の一人であったのだろう。
高校からドロップアウトした
生粋の京都っ子だったのである。

その京都っ子をシスコで
拾ったのは村瀬シゲトさん。
コチラは東京出身である。
後に『村八分』の
三代目ドラマーになるのだが、
この時はまだ、
本人も夢にも想っていなかった。

「中学生の頃からなんだ。とにかく外国に出たかったんだよ」

そう言って“クイッ”っと、
美味そうに酒をあおるシゲトさん。

チャー坊がシスコで
シゲトさんに出会わなかったら、
冨士夫がチャー坊と
出会うこともなかっただろう。

そんな『村八分』物語の
ルーツとも呼ぶべき話を、
今回から数回に分けてしようと思う。

それには、まず、
シゲトさんの生い立ちから
始めなければならないと思うのだ。

………………………………

「俺が生まれた戦後(1946年)は、食糧難の酷い時期だったと聞いている。父親はすでに亡く、俺は母親一人に育てられたんだ」

今風にいえばシングルマザーだが、
戦後は想像を絶する
大変さがあったのだろう。
シゲトさんの母親は
生活のために働き詰めで
殆ど子育てができず、
幼いころのシゲトさんは
世田谷に借りていたアパートの
大家夫婦に育てられたのだという。

「母親が一緒に住もうと迎えに来たときには、俺はすでに小学校の3年になっていたよ」

有楽町に『むらせ』という
小料理屋をオープンさせ、
親子仲睦まじく暮らし始めた、
と言いたいところなのだが、
やっと一緒に暮らした母親は、
夜中に帰宅して
朝は寝ているという状態だった。
そんな、すれ違い生活に
シゲトさんは次第にヨレていく。

その頃の日本には、
戦争で父親を亡くした
同級生たちが普通にいた。
彼らと夜の街を彷徨うと
寂しさの歩調が合うのだった。

「目に見えてワルくなっていく俺が心配だったんだろうな。母親は小料理屋を閉めて飯田橋にあった小さな材木屋を居抜きで買い取り、昼間の商売を始めたよ」

シゲトさんの救いは
水泳が得意だったこと。

チャー坊が、
「シゲトはオリンピックの強化選手だったんや」
と自慢げに言っていたのは
少しばかりオーバーにしても、
中学生になると地域の大会記録を
更新するような逸材になった。

「子供心に片親育ちのプレッシャーがあったから、ハナっからサラリーマンになる選択肢は捨てていたんだ。今とは全然時代が違うからね。だから、スポーツ選手か芸術家か音楽家になるんだって、小学校の時の文集かなんかに書いたのを憶えてるよ。そうしたらクラスの皆に笑われたんだけどさ、俺はけっこう本気だったんだぜ」

その水泳能力の後押しもあり、
中大杉並高校に入学する。

しかし、水泳の強豪校ともなれば、
部活動もまたスパルタである。
不条理なタテ社会と、
ウムを言わさない特訓の連続に、
シゲトさんは水泳に対する
興味を失っていった。

「一応、中大には進んだけどさ、全く行かなかったよ。それより外国に行くことばかり考えていたんだ。中学生の頃から“日本人が永住できる国はどこだろう?”って、真剣に調べていたんだよな、我ながら変わってたと思うよ」

シゲトさんは子供心に、
生きていく環境を
変えたかったのだと思う。
寂しさと気丈さと、
コンプレックスとプライドが
染み込むように入り交じり、
違う自分を想像させていたのだ。

「予定通り、高校卒業と同時に外国に行くことにした。だけど、何をどうしたら良いのかが解らないんだ。周りを見回したって誰も行った奴がいないんだから、聞けないしね。今みたいに旅行代理店があるわけじゃないからさ、結局は、外務省に行くわけなんだよ。パスポートの申請にね」

日本人の海外旅行は
戦後20年頃までは、
日本政府やGHQによる
強い規制を受けていた。

一般の市民が自由に外国へ
渡航できるようになったのは、
実に1964年の
東京オリンピック以降なのである。

「外務省の窓口のお役人がさ、“あんたドコ行くの?”って訊くからさ、“世界一周”ってコッチも答えるだろ(笑)。だって、国が決まってないんだから仕方がない。するとさ、 “ん?!” ってな顔をするわけさ、そのお役人がさ。そこで、窓口にいた俺の後ろに並んでいる連中も“ザワザワ”と、ザワつきはじめるんだな」

1966年の春先のことである。
たった今みたいに
桜が舞う風景であったかは
定かではないが、
シゲト青年は若干18歳。
覚悟を持った初陣であった。

「ところがさ、“あんた、世界一周っていってもね、まずは誰でも何処かに行くわけで、私はそれを訊いてるんです。それで?ドコ行くの?”って改めてお役人に訊かれるわけなんだよね。だからさ、思わず、“香港に行きます”なんて答えたわけ(笑)。“そこから陸路を移動してヨーロッパまで行くんです”とか言ったらさ、後ろに並んでいる連中までが“ドワー”っと笑いやがったんだ」

1964年に許可された
海外旅行の条件は、
年に1回きりで、
300ドルの外貨持ち出しのみ。
つまり、約1週間分の外貨しか
持ち出せなかったのである。

「“あんたね、300ドルしか持ち出せないのに、なんでヨーロッパに行ったりできるんですか?” なんてね、なおもお役人に問いつめられるわけだ。そこに無知が重なってさ、“いや、アッチ行ったら働きまして” なんて返すんだけど、働いちゃいけない時代だったんだよな、“あんたね、ビザがなければ働けませんよ”って言うお役人のセリフに、“そのビザ?って、何ですか?”と返したら、再び外務省窓口が“ドドォ”って、沸くわけなんだよね」

それでも、人の良い時代なのだ。
お役人が見ず知らずの若者のために、
アメリカ留学の経験がある
日本人の旅行関係者を
紹介してくれたのである。

そんなこんなで、
シゲトさんは『世界一周』ではなく、
行く先をアメリカへと定めた。
ソーシャルセキュリティー(許可証)をとり、
スチューデントビザも取得した。
これで、アメリカで働くこともできる。

初めて外務省を訪れた
3ヵ月後のことである。

そのときのシゲトさんは
19歳になったばかり。

ビートルズが来日した1966年に、
サンフランシスコに旅立ったのである。
いや、船旅だから、
2週間の航海に出たのであった。

「横浜港から出航するんだけど、ソコに母親から恋人から友達まで、十数人が見送りに来てくれたんだ。汽笛が鳴ると同時に船上からいっせいにテープが投げ込まれて、岸から船が離れ始め、そのテープが伸びきって切れて行くという定番の場面になっていくんだけど、アレはウッカリと涙ぐむんだよな。顔を震わせながら懸命に微笑んで見せるとかね、解っていてもそうなるもんなんだよ。そこに加えて、急に母親に対する思いが込み上げてきた。“俺はもう二度と日本に帰らないのか!?”なんちゃってね、感傷的なまま船室に行き、ベッドに潜り込むんだけど、それが船底でね、エンジンの“ドドド”って音が、すぐ隣りから鳴り響いてくるような感じで。だから、涙が乾く間もなくすぐさま船酔いさ。32人部屋に36人も押し込まれてギュウギュウだったのを憶えてるよ。ソコに2週間も居たんだから、陸地に上がってもずっと揺れ続けている感じだった。その気分が妙に身に付いちゃってさ、実に不思議だったのを憶えているよ」

1965年頃より米国では、
反戦の象徴として花を用いたり
着飾ったりすることが、
若者たちの間で
行われるようになっていた。

泥沼化するベトナム戦争への
平和運動や既存の社会への抵抗として、
愛と平和を求めて定職に付かず、
自由放漫な暮らしを良しとした
ヒッピー文化が若者中心に花開き、
『花のサンフランシスコ』を
演出していたのである。

「初めてのシスコの空はダークブルーだったな。綺麗な海を見ながら気持ちのいい風に吹かれた憶えがあるよ。俺と同じくらいの若い奴らは、ほとんどが長髪でインド風シャツにネックレスって感じ。見渡す限り何処もかしこもヒッピーの環境だったよ。行き交うクルマだって、歩いてる人同士でも、みんなピースマークなのさ。まるで冗談みたいな話だけど、あの時代のシスコはほんとうにそうだったんだ。でも、ソコに行き着いた俺はバリバリのアイビーファッションでさ、東京で愛読していた『平凡パンチ』には、ヒッピーのヒの字も一切無かったから、イケテルつもりのVANジャケットってわけ。解ってりゃあ、髪の毛くらい伸ばして行ったのに、ほんと、我ながら滑稽だって、刈り上げアタマを撫でてたもんさ」

ヘイトストリート(※1)は、
世界中からやって来た若者で溢れていた。
週末になるとゴールデンゲートパーク (※2)や、
そのヘイトストリートで、
ほとんど毎週のように
フリーコンサートが開かれていたのだ。

滅多に無い華やかな時代に、
世界一華やいだ場所で
シゲトさんは10代の
最後を迎えることなる。

「だけど、行ったばかりの時はさ、生活するだけで大変だったんだ。レストランの皿洗いとか、ビルの掃除とかさ、何だって選ばずにやってたわけよ。時間がある時はフェスティバルとか行って写真とかも撮ってたんだけどね」

それでも、アメリカなら
平気だったと言う。
生きるために
がむしゃらになれたのだとか。

ユニークなのは、ヘイトストリートにある
『フリークリニック』で働いた事だ。
ココは麻薬患者や治療費のない
人たちを無料で治療する小さな病院。
現在も同じ場所で開業している。

「ヒッピーたちはマリファナとLSD以外はやらなかった。やったらアウトなんだよ。それがグチャグチャになっちゃうんだよな。そこが難しいところなんだけどね」

いろいろな仕事をこなしたが、
ジャニター(管理人・門番)や、
ハンディマン(修理屋)に
落ち着いた頃の1969年、
シスコにチャー坊が現れたのだ。

「それが、全ての始まりだよ」

チャー坊は何も持っていなかった。
裸足で着のみ着のまま、
バッグのひとつも
持っていなかったという。
その頃、シゲトさんは
3人(1人の日本人とアメリカ人)で
部屋をシェアしていた。
チャー坊はそこに
転がり込んだのである。

1969年、
ウッドストックが開催され、
ジョンとヨーコが結婚し、
ブライアン・ジョーンズの死が、
シスコ郊外にある
オルタモントの悲劇(※3)に
つながっていった時代である。

「あの頃のことを思い出すと、とっても懐かしい想いに包まれるんだ。俺は働きながら『アカデミー・オブ・アート』というアート・カレッジにも通っていたんだけど、学校に行くと“今日、ストーンズがオルタモントでフリーコンサートを行なうようだ”という情報が流れ、ガールフレンドとルームメイトと一緒に駆けつけたんだ。会場になった丘は曇りがちで肌寒く、Tシャツで行っちまったのを悔やんだ想いがある。辺りはヘルスエンジェルスのバイクが我が物顔で走り回っていた。ストーンズがステージに登場した頃は日が沈んでいたのを憶えているよ。ソコにチャー坊も誰かと一緒に来ていたらしい。後から聞いた話だけどね」

チャー坊が転がり込んで来ても、
シゲトさんや部屋の仲間たちは
いつものように仕事に行っていた。
何もすることがないチャー坊は、
ブラブラと遊びながら
みんなの帰りを待っている。

みんなでビッグサイズの
安いワインを呑み、
週末になれば
フェスに遊びに行ったりした。

「チャー坊はブッ飛んでさ、よく屋根によじ登っては、辺りの景色を眺めてたよ」

その脳裏に映っていたのは
近くにあるツインピークスという
小高い丘だったのかも知れない。
興が乗った時はみんなして、
そこにも出かけたりしていたのだから。

そんな日々を過ごしている
ある日、
チャー坊が突然に言い出した。

「日本に帰ってバンドやらへん?」

「エッ!?」

シゲトさんは、
驚いたまま聞き返した。

「チャー坊、バンドって、お前は何やるんだ?」

「ぼく、ヴォーカル」

「ヴォーカル? お前がか?」

イメージが全然わかなかった。
チャー坊にはワルかったが、
思わずシゲトさんは
笑い転げてしまったのだと言う。

当時のチャー坊は、
部屋の中でよく踊っていた。
ブラックライトの部屋の片隅で、
妖艶な片鱗を現していたのだ。

「踊りながらさ、チャー坊が繰り返すんだ」

「シゲト!日本に帰ってバンドやろうや!」

ってさ。

ほんと、可笑しなことを
言う奴だなぁって、
あの時の俺らは、

ただ、笑ってばかりだったんだ。

 

〜続きます〜(1965年〜1969年)

(※1)ヘイトストリート/ヘイト‐アシュベリー(Haight Ashbury)米国カリフォルニア州サンフランシスコ中心部の一地区。1960年代のヒッピー文化発祥の地とされる。70年代はゲイカルチャーの中心地として盛り上がっていた。近年はIT産業やコーヒーなどで盛り上がっている。

(※2)ゴールデンゲートパーク/ゴールデンゲートパーク/庭園、林間の草地、静かな湖が散りばめられたサンフランシスコの緑の中心地。

(※3)オルタモントの悲劇/オルタモント・フリーコンサート(Altamont Free Concert)は、1969年12月6日、カリフォルニア州にあるオルタモント・スピードウェイで開催された、ローリング・ストーンズ主催のコンサート。演奏中に観客が殺害される事件が起こり、『オルタモントの悲劇』の別名でも知られている。

PS/
【2019/4/25 拾得にて】

「邂逅~25年目の夜~(柴田和志に捧ぐ)」
加藤義明氏(ex村八分)と花田裕之氏(ルースターズ、ロックンロールジプシーズ)のジョイントライブに、村瀬シゲト(ex村八分)見掛栄一(ex村八分)が加わる事になりました。
前売り3000円、当日3500円
17:30開場 19:00開演

2019年5月15日リリース
【村八分『三田祭 1972』(CD+DVD)】
完全限定デラックスエディション (2CD+DVD+Photo Book)同時発売 初回限定特典CDR付き

詳細はこちら↓
http://amass.jp/118996/

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