135『村八分にはいる』もうひとつの村八分2/村瀬シゲト

1970年の日本は高景気に沸いていた。

良い社会を創ろうと、
前向きにスクラムを組んだ
革命運動時代はあえなく頓挫し、
高度経済成長によって
“みんなが中産階級なんだよ”
というマヤカしに、
国民全体が流されて行く。

不条理な日米安保への抵抗も
ついにかなわなかった。
学生運動の終焉からの
内ゲバを見るにつけ、
しょせん政治や正義などは、
ナンセンスな価値観なんだと
国民全体が引いていったのである。

いっぽう、右肩上がりに
国民の生活水準は上がっていった。
その沸き立つ湯気を煽るように、
大阪万博が開催され、
新幹線などの需要を維持するために、
『ディスカバー・ジャパン』
と銘打つ一大キャンペーンが
各マスメディアで展開されたのだ。

女性雑誌『anan』『nonno』が創刊され、
『アンノン族』が登場し、
若い女性の新しい
旅行スタイルを作り出した。

いっぽう海外旅行は、
1ドルが360円だったため、
まだまだ庶民には高嶺の花だったが、
ジャンボジェットの就航などにより、
乗員定数は一気に倍増したのだ。

そんな高景気から生まれた
得体の知れない高揚感は、
『モーレツからビューティフルへ』
というメッセージと共に
TVCM等に映し出された。

歩行者天国でにぎわう新宿の街を
『Beautiful』というメッセージを掲げ、
ヒッピースタイルで闊歩する
カーリーヘアの加藤和彦に、
当時、高校に入ったばかりの僕は、
憧れの念を持って見入ったものである。

「ほぅ、コレがヒッピーだべか?」

いかんせん、我が家がまだ
モノクロTVだったために、
必死になって加藤和彦の着る
サイケデリックな色を
ムダに想像している頃、
その加藤和彦と同郷の後輩、
柴田和志ことチャー坊は、
約1年間のアメリカ修行(?)を経て、
1970年の東京に現れたのであった。

想像していただきたい。
空港に降り立ったチャー坊は、
ズタ袋、いや、ドンゴロスを
上半身にまとっている。

ドンゴロス [dungaree]とは、

麻袋。または、
麻などで織った丈夫な粗い布のこと。

つまり、大量の珈琲豆などを入れる
麻袋のことを指すのである。

「俺はその珈琲サック(ドンゴロス)に、首と両腕を通す穴を空けてかぶっていた時があってさ、ソレをチャー坊にあげたんだよ。シスコではそんな恰好で銀行なんかにも行ったりしてた事があったんだぜ(笑)」

と大笑いするシゲトさんだが、
チャー坊は“そんな恰好”で
シスコから搭乗し、
晴れて帰国したのであった。

今一度、その時の
チャー坊を想像してみよう。

ドンゴロスの下には、
だぼだぼのベルボトムをはいている。

「それも俺のやつさ。チャー坊にやったんだよ。身長が違うからコレがまた滑稽なくらいに大きいわけよ(シゲトさんの身長は180以上ある)。ズレ落ちちゃうからウェストをヒモでしばってさ、そんな恰好でチャー坊は帰国していったんだ(笑)」

さて、シゲトさんの話によれば、
“そんな恰好”で帰国したチャー坊は、
新宿の紀伊国屋で
ばったりと冨士夫に
出会ったことになっているのだが、

(それは、冨士夫ではなく、“ガリバー(※1)だったのかも知れない。ガリバーがチャー坊に冨士夫を紹介したのかも?”と、シゲトさんは思い直してもいる)

冨士夫が語り降ろした
『山口冨士夫・著/村八分』によれば、

当時、冨士夫は曙町にあった
フジテレビの門の前で
帰国したチャー坊と
待ち合わせをしているのだ。

ガリバー から頼まれ、
フジテレビのすぐ脇にあった
冨士夫宅にチャー坊を
迎え入れるためである。

ソコに空港(あるいは新宿)
からタクシーで
チャー坊が乗り付けるのであった。

初対面のチャー坊は、
タクシー代を払ってくれた冨士夫を
睨みつけたという。

「(チャー坊は)ずっと俺を睨みつけている。服の代わりにコーヒー袋被ってるんだよ。髪はぼっさぼさで超長い。眉毛剃ってて、めちゃめちゃヒッピーなジーンズだ」

冨士夫はそう回想している。

面白いのは、
その時のチャー坊のスタイルを
冨士夫がめちゃくちゃに
気に入っちゃったことだ。

「チャー坊のあの時のルックスほどヒッピーな服はなかったね。チャー坊に会うとみんなそのヒッピーなジーンズを真似してはいてたもん」

そう、それはサイズの合わない
シゲトさんのベルボトムのことである。
あの時代の日本はまだ、
ヒッピーがなんじゃろか
よく解っていなかったのかも知れない。

新宿駅の東口のグリーンハウス(※2)
と称した芝生なんぞを通ると、
どなたがヒッピーで、
そなたがフーテン(※3)なのか、
ボーダーラインが読めなかった。

そのボーダーラインを行き交う
髪の長い東口の兄さんたちは、
当時、約800人も居たという。
駅前広場で寝転んだり、
煙草吸ったり、
アンパン吸ったりして、
自由とは違う何かを
感じさせてくれたものだ。


(新宿・風月堂)

話がひん曲がったが、
まぁ、そこからチャー坊と冨士夫の
『村八分』物語が
始まっていくのであるが、
今回はシゲトさんのお話である。

視線をシゲトさんに戻そうと思う。

チャー坊が帰国した翌年、
1971年にシゲトさんも
帰国することとなった。

帰って来た理由は色々とあるらしいが、
ひとくちで言えば、
アメリカでの生活が煮詰まった
タイミングだったらしい。

まぁ、19歳で渡米して5年、
頃合いを見計らっての
心機一転だったのではないだろうか。

「5年振りに帰った東京で、俺はカメラの仕事をするんだ。アメリカのカレッジでかじったことを活かそうと想ってね」

仕事はすぐに見つかった。
´70年の初期にアメリカの
アート・カレッジを出ている人材は、
そうざらにいるもんじゃない。

『HOW TO SEX』(※4)
という本を憶えているだろうか?
当時、高校生だった僕らにとっては、
古代インドの『カーマスートラ』
に匹敵する性愛トリセツ書である。

シゲトさんは、
そのベストセラー本の
カメラマンの後釜として、
印税収入で潤っている
制作印刷会社に就職したのである。

「不思議な会社だったよ。社長が“給料いくら欲しい?”って聞くから、正直に少し多めの額を言ったら、“なんだ、そんなんでいいのか!”って言われて、“もっと多く言えばよかったかな!?”なんて、随分とモヤモヤしたのを憶えているんだ」

それでも結局、
破格に良い給料をもらうこととなった。
それどころか、
住まい(アパート)を提供され、
いきなりカメラやクルマまで
買ってもらったりしたのだ。

その会社は、
立木義浩や鋤田正義をはじめとする
大御所カメラマンとの付き合いがあり、
カレンダーや出版物などを得意としていた。
アメリカ帰りのカメラマンの卵にとっては、
滅多に無いチャンス到来なのであった。

「いやぁ、実にラッキーだって思ったよ。このままいけばドコまで行っちゃうんだろう!?って、とってもイイ気分に浸っていたんだ。そんなタイミングに来たんだよな。あいつが、そう、チャー坊がさ、“バンドに入っておくれよ”って。そりゃ、誰だって断るだろう。“ちょっと、今は無理だな”って言ったのを憶えてる」

チャー坊は断られても諦めずに、
2度3度とシゲトさん詣でをする。
終いには、
木村さん(『村八分』マネージャー)
まで説得に駆り出されたのである。

「コッチはチャー坊の歌も聴いたことがないんだからさ、俺はバンドなんて半信半疑だったよ。それをやるなんてさ、とんでもないって思ってたわけさ。そうしたら、ある時、ラジオの公開録音を観に来てくれって言うからさ、試しに行ってみたんだ。糸井五郎が司会してて、モップスなんかも出演していたやつだった。そこで初めて『村八分』を観たんだけど、“おっ!なかなか、いいじゃないか”なんて思っちゃったんだよな、俺」

しかし、そもそもである。
シゲトさんは何の楽器もできない。

「だからさ、俺、何でバンドに入んなきゃならないんだ?」

って事になる。

「“ドラムをやってくれ”って言われてもさ、“ドラムなんか、やったことないから”って言うのが、当然の断る理由なわけ」

そこに、冨士夫が出て来るのだとか。

「“やる気になってやりゃあ、すぐに憶えるから”って冨士夫に言われたよ。“ズンズタッタ、ズンズタッタ”って叩けばいいんだからって言われてさ、ソコで流れが変わっちまったんだよな」

冨士夫にしてみたら、
素人を玄人にするのはお手の物である。
GS時代から誰よりも遊ばずに
全ての楽器を習得した経験が、
こういったときに光り輝くのだった。

その冨士夫の記憶はこうだ。

“カントは(『村八分』を)やめた。それで「ドラムどうしよう」ってなったときにチャー坊と俺とで相談してさ、「シゲトくんってほんとに、すごい大人だよね」「おしゃれだし、知的だし」それで頼んだんだよ。そしたら快く引き受けてくれてさ。アメリカを引き払って日本に戻って来てくれたんだから、すごいよね、シゲトくんも”(山口冨士夫/著『村八分』より)

ということになる。

冨士夫の記憶は、
いつだってドラマチックなのだ。

シゲトさんが
『村八分』に入るために
アメリカを引き払ったのだと
思い込んでいた冨士夫は、
感謝の気持ちで一杯だったのである。

“シゲトくんが入ってくれたおかげで、最後の村八分がすごく安定した。精神的にもなんかこう、ラリッてる状態じゃなくなったし。やっぱり責任感じるじゃない、アメリカを引き払ってまでわざわざオレたちのためにさ、ドラムに座ってくれたんだから”

そう言って、
気を引き締める冨士夫と、
カメラマンとしての
絶好のチャンスを投げ捨てた
シゲトさんとの特訓が始まるのである。

“ドラムとギターでさ、シゲトくんと毎日、毎日やったよ”

と冨士夫が言えば、

「練習の合間に冨士夫とよく呑みに行ったな。なんてったって、バンドで酒を呑めるのは俺と冨士夫だけなんだから。川の畔のおでん屋とかさ、よく呑みに行って話したんだ」

と回想するシゲトさんがいる。

それは、遥かむかし、
半世紀も前の鴨川の流れのなか。
ソコで酌み交わす酒に
つかの間の友情も
染み渡っていったのだろう?!

「だけど、何にもできねえ俺にとっちゃ、バンドの進み方が早過ぎるわけよ」

シゲトさんが言うように、
この頃の『村八分』の進化は
すさまじかった。

バンドの中でのチャー坊色が
強くなっていくにつれて、
誰もチャー坊と冨士夫を
仕切れなくなってきていたのである。

だからこそシゲトさんが
必要だったのかも知れない。

「チャー坊は俺より4〜5歳は若いんだ。だから俺は兄貴みたいな役割なんだな。面倒をみるっていうかさ、バンドの中でもバランスを調整するような位置にいたのかも知れないね。周りのみんなからは、“チャー坊が恐い”とかいう話が聞こえてくるんだけど、俺にはみじんも見せなかったよ。やつが俺にさからったことは1回もないし、何の問題もない良好な関係だったんだ」

それはシスコのときから
ずっと変わらない、
仲の良い兄弟のような関係性だった。

チャー坊は、シゲトさんが居ると
明らかに安心するようだった。

シゲトさんが入った『村八分』は、
この後、円山音楽堂から西部講堂へと、
後世に残る舞台への坂道を
一気に駆け上がって行く。

「円山音楽堂なんて、まだ『村八分』の曲さえも憶えちゃいない頃だった。ほんと、あの時の心境は胃潰瘍寸前だったよ」

そう言いながらシゲトさんは、
思い出すように
少しだけ視線を宙に泳がせた。

「だけどさ、不思議なんだよ。俺なんか、何にも叩けないからって、不安いっぱいのままでドラムに陣取っているだろ。その時にチャー坊がすぅっと、ステージに現れてくると、なんだか俺でもイケルような気になってくるんだよな」

まるで舞踏を想わせるような
圧倒的な存在感で、
髪を振り乱しながら
チャー坊がステージを舞う。

ソコに、
気力を込めたシゲトさんの
リズムが鳴り響いた、

瞬間、

「シゲト!日本に帰ってバンドやろうや!」

波打つ、例えようの無い快感の中で、

叫びながら舞う、
シスコでのチャー坊の姿が
フラッシュバックするのだった。

(なおも続きます)

(1970年〜72年)

(※1)ガリバー/皮の上下を着こなし、『ガリバー旅行記』に出てくるガリバーのような雰囲気を持ったフーテン。新宿『風月堂』で冨士夫と知り合う。
(※2)グリーンハウス/ 新宿駅東口駅前ロータリーにあった緑地帯。春夏は芝生に寝転び天然の無料宿泊所と化した。

(※3)フーテン/ 1960年代前半より新宿を中心に歌舞伎町のJAZZ喫茶や風月堂などにたむろした若者たち。マスコミのあおりを受け1967年ピークを迎えたフーテンたちは、道端でのシンナー吸引や睡眠薬遊びなどのアンモラルな生態をともなって、”青春コジキ”などとも呼ばれた。

(※4)『HOW TO SEX』/医学博士・奈良林 祥​・著による、ためになる実践性春書。当時としては珍しいカラー写真を使い性交テクニックを解説。計250万部以上売れる一大ベストセラーになった。

PS/
【2019/4/25 拾得にて】
いよいよ迫ってきました!

『村八分』のメンバー3人が揃う、滅多に無い、二度と無い、ステージです。

「邂逅~25年目の夜~(柴田和志に捧ぐ)」
加藤義明氏(ex村八分)と花田裕之氏(ルースターズ、ロックンロールジプシーズ)
のジョイントライブに、村瀬シゲト(ex村八分)見掛栄一(ex村八分)が加わる事になりました。
前売り3000円、当日3500円
17:30開場 19:00開演

【村八分 三田祭 1972】リマスター音源比較用サンプル公開スタート
☆メルマガのみ先行公開☆
最新リマスター音源と2000年リリースの初版音源を比較して聴けるサンプラーを一般公開に先駆けてメルマガのみ先行公開します。

「ねたのよい」村八分 三田祭 1972 リマスター音源比較用サンプル

2019年5月15日リリース / 初回限定特典CDR付、予約受付中!

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