157『東芝EMI』
赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」は、
かつては「溜池」とよぶ、
外堀兼用 の上水源だったという。
かなり細長い溜池で
ひょうたん池と呼ばれていたのだとか。
その「外堀通り」と「六本木通り」が
交差した「溜池交差点」に
かつての『東芝EMI』はあった。
「私が入社した頃はさ、“溜池のピサの斜塔”って呼ばれていて、道路側に傾いていたんだよ。まぁ、早い話がオンボロだったんだな」
そう言いながらハッシーは
クイっ!とビールを煽った。
まだランチタイムとも呼ぶべき
昼日中の居酒屋である。
僕らはその時間に呑もうと決めていた。
ハッシーの思い出話を聞くために、
秋も深まる11月に本厚木まで出向いたのであった。
「私が入社したのは昭和42年、西暦でいうと1962年だね。東芝音楽工業は東芝本社の下請け会社で、本社役員の天下り先だったんだ。社員は700~800人くらいいたな。各支店や工場の人間まで合わせての数だけどね。」
昼日中の居酒屋で
ハンチングキャップを小粋に被り、
昔話に舌鼓を打つハッシーがいる。
この人がいなければ、
冨士夫がメジャーに
いくことはなかっただろう。
当時のハッシーは東芝EMIの統括制作部長だった。
そして、山口冨士夫の世間評を知らない
唯一のお偉いさんだったのだ。
「会議で“TEARDROPSと契約したい”と言ったら、全員が猛反対したよ。冨士夫を中心にメンバーの素行の悪さが有名だったからね。だけど俺にはとってもハッピーなバンドに映ったんだ。特に冨士夫には演歌心があるって思ったね」
日本に西洋音楽が入ってきたのは明治時代である。
それまでの和の音楽は、
ヨナ抜き音階といって四と七がない。
つまり、西洋音楽と比べると
ファ(四)とシ(七)が抜けているのだ。
(ドレミソラ)である。
「日本人にはそれを好むDNAがあるんだ」
とハッシーは言う。
そこに朝鮮のDNAでもある
泣きのフレーズが入ってくると、
まさに演歌っぽくなってくる。
「日本人は演歌っぽいのが好きなんだな。演歌っていったら語弊があるかも知れないけど、ドラマチックやロマンチックな歌が好きなんだ。クラシックでいえば、ベートーベンの第九だよ。ビートルズでいえば、ウチで最も売れたのは石坂氏(石坂敬一)が編集してまとめた赤いジャケットのやつ。」
その自論は、ハッシーの十八番(オハコ)であった。
それを知らなかった初対面で
冨士夫を演歌呼ばわりしたので、
『大丈夫かしら?』
と思ったりもしたのだが、
まさに千載一遇のチャンスである。
イベンターも避けて通る我がバンドに、
ついに天使が微笑んだのであった。
ハッシーの東芝E M I話を続けたい。
「私が入社した頃は時代が変革してきて、音楽の質も変わってきたころだったんだよね。実に様々なジャンルの音楽好きな人間がレコード会社には必要とされる時代の幕開けだったんだ。本社から天下ってきた会社の重鎮たちは、音楽会社なのに音楽のことなんかチンプンカンプンだからさ、そういった新入社員たちの意見を聞いてレコード作りをして、業績を上げていったんだな。ベンチャーズ、ビートルズ、クリフ・リチャード、ピーター・ボール&マリー、加山雄三、フォークルセダーズ…挙げはじめたらキリがないよ。」
入社したてのハッシーは、
高嶋弘之氏(BEATLESの日本での仕掛人として有名。娘はヴァイオリン奏者・高嶋さち子さん)の下についた。
「東芝の独特なアイデアは、高嶋さんが始めた『和製ポップス』っていうジャンル。東芝には歌謡曲っていうジャンルがなかったからね。演歌かニューミュージックって呼ばれる区分けだったんだ。」
レコード会社にとっては
特別な時代だったという。
上にいるのは本社からの天下りばかり。
ゆえに何も解らずに
お固いサラリーマンを気取っている。
下に行くにつれてどんどんレコードが
流行って行く時代になるのだから、
上の人間が下の感覚に頼っていた。
「だから、俺たちがちょうど良いポジションにいた訳なんだ。入社したときの上司だった高嶋さんが言うのさ、「橋本くん、これどう思う?」って、ワイルドワンズの『思い出の渚』を聴かせてくれたんだけど、どう聴いてもシャドウズの『ブルースター』って曲とまったくフレーズが同じだから、「パクリじゃないですか」って指摘したら、「てめぇ、この野郎!」って、襟首をつかまれた覚えがあるよ。大人げがないよな、新入社員つかまえてさ(笑)。でも悪気も無いし、それでお互いが気まずくなったりもしないオープンな世界観があったね。高嶋さんは、たまたま知らなかったんだと思う。俺はたまたま知ってただけだったんだよね。でもさ、驚いたことに日本中が知らなかったんだよな。だって、大ヒットしたんだからね、ワイルドワンズのオリジナルとして。」
「高嶋さんや石坂さんの功績っていうか、面白い試みはさ、洋楽の曲名を勝手に日本のタイトルに置き換えて売っちゃったことさ。ビートルズやピンクフロイドなんかが有名だけど、それこそ好き勝手にやっていたよね。それもぜんぜん違うタイトルをつけるんだ。ピンクフロイドの『原子心母』にはびっくりしたよ。少なくとも日本では、あのタイトルにしたことが売れ行きに関係した気がするよね。(※原題の「Atom Heart Mother」とは、心臓にペースメーカーを埋め込んで、生きながらえている妊婦のことを書いた新聞記事の見出しから取られたという)
そんなハッシーをペースメーカーにして、
TEARDROPSは東芝EMI との
3年契約を全うしたが、
僕はその後もハッシーと定期的に会い続け、
気がつくと30年以上の付き合いになっている。
今でもお互いの共通の話題は
山口冨士夫である。
毎回、同じ話題に相槌を打ち、
同じところで大笑いしている気がする。
そして、独特の演歌論に驚かされる頃、
お開きになるのだった。
冨士夫が『アトモスフィア』の頃、
ハッシーは法務部長に上り詰めていた。
末は役員か代表か、
どっかに気に入ったバンドがいたら、
遠慮なく送り込んでやろうかと思っていた。
そんな矢先、
「会社は辞めたよ」
ある夜の呑み会で、
珍しくヘネシーを注いでくれながら
いつもより赤ら顔をしたハッシーが、
実にあっさりとうちあけた。
「どうしてですか?」
と訊いたかどうか覚えていない。
忙しく音楽以外の仕事をしているときだったから、
こちらもムキにならなかったのだろう。
それを追うように
東芝EMIも崩壊していく。
「持ち株が東芝:45%/EMI:55%に逆転しちゃったのがそもそもの原因だよ。そこで権利が派生したEMIが社長に任命したのが、当時の人事部長だった人。人事に詳しくて英語が堪能だったからEMIにとっては好都合だったんだろうな。コミュニケーションはとれても、中身(音楽)が伴わなかったのかもしれないね。工場を売り、本社ビルを売り、ついには何にもなくなっちゃった。あっという間だったね。こんな事が世の中に起こるのか!?って思ったよ。」
そう言ってハッシーは、
コップに残るビールを飲み干した。
夕暮れにはまだまだ間がある時間だった。
外に出た僕らは、
本厚木の駅前でお互いを見合った。
「次は東京まで出て行こうか」
帽子を被り直しながらハッシーが言った。
「いえ、次もロマンスカーで来ますよ」
なんだかそんな気分だったのだ。
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帰りの車内で東芝EMIの
崩壊について調べてみた。
東芝本社が原子力事業を推進した結果、
1兆円超える損失が起き、
音楽事業を切り捨てる結果に
なったとされている。
当時、東芝EMIとしての売上げは
決して赤字ではなかったという。
業界が低迷していく中でも
業績は安定していたのだ。
そんな優良企業を3年間かけて
計画的に潰していき、
2008年には溜池の本社社屋も売却し、
最後に残った東芝色を一掃したのである。
「RCの『COVERS』が本社の圧力で発売できなかった時から、東芝EMIの崩壊は始まっていたのです」
という石坂敬一さんのインタビュー記事を
どこかで読んだことを思い出した。
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まだ12歳だった小学生の頃、
12月の寒い最中に
酔っぱらった親父が
1枚のシングル盤を買ってきた。
「これだったら聴いてもいいぞ、面白いからな」
“流行歌はくだらないから聴くな”
と言っていた堅物から、
ぽんっと投げ渡されたのが
『帰ってきたヨッパライ』だったのだ。
「なんだよ、自分のことかよ」
クリスマスプレゼントのつもりだったのか、
表現下手の親父の真意はわからなかったが、
とても嬉しかったのを覚えている。
そのジャケットを手に取ってみる。
ピンクとグリーン系の
サイケデリックなイラストである。
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デザインの下部に
発売元が印刷されている。
『東芝音楽工業株式会社』
この思い出深い会社は、
今はもうないのである。
(2009年11月)