131『チャー坊/25年目の行く春・前編』

冬の木漏れ日の中を、
よく冨士夫とドライブした。
たいていは病院通いが
目的だったのだが、
近くの温泉で一息つく
つかの間のやすらぎもあったのだ。

秋川方面の山蔭の景色を流しながら、
冨士夫がする昔話を聞く。
内容は『京都時代』の話が
多かったように思う。
過ぎ去った時間の中で、
様々な想いが凝縮しているかのように、
ポツリポツリと言葉を重ねるのだ。
まるで自分自身に
言って聞かせるように、
心の断片を貼り合わせるのである。

それは、聴き手にとっては、
初めて聴く歌詞のようでもあり、
何十回も聴かされた
童べ歌みたいでもあった。

その日の気分によって微妙に変わるようだ。
身体の痛さや心の重みで、
言葉の浮遊感が違ってくるのだと感じていた。

ただ、それらの話の主人公は、
チャー坊であることが多かった気がする。

振り返れば、
『村八分』シーンが冨士夫にとって、
人生の核だったのだから、
そこで兄弟のように
つながっていたチャー坊は、
かけがえのない存在だったのだろう。

冨士夫にとって、
このひとつ年下の弟は、
とっても生意気な
存在だったのかも知れない。
天の邪鬼で喧嘩っ早くて、
うかつに隙を見せることも
できやしないのだ。

「喧嘩は先手必勝だからな、チャー坊の強さは少々フライング気味だったんだ」

とか言いながら、
斜にかまえる冨士夫を憶えている。
苦笑いなのか何なのか、
ふてたような乾いた口調で
数々のチャー坊の武勇伝を
聞かせてくれたものだ。

´70年初期の日比谷野外音楽堂のイベントで、
楽屋にいた全てのバンド連中を見回し、

「俺たちをステージに上げたけりゃ、コイツらのギャラの全部をよこしな」

と、主催者に凄んだらしい。
まるで、チンピラのごときである。
しかし、チャー坊には、
そうは思わせない
ギリギリの格好良さがあったのだろう。

「チャー坊と冨士夫が店の中に入ってくると、とたんにガラリとソコらの空気が変わったんだよ」

と、当時の京都『拾得』で
2人に出くわした、
西さん(クロコダイル店長)が
言っていたのを思い出す。

かつて、ロックは反体制で、
世間からはぐれた
アウトローたちの特権だった。
チャー坊の存在感は、
まさにそんな時代の異端児
そのものだったのかも知れない。

京都の街中を歩くときも、
絶えず『村八分』であることを
意識していたのだと冨士夫は言っていた。

本来は小心で気の良い男共が、
髪を邪気のようになびかせて、
ロンドンブーツで大きく伸びをし、
気を張りながら闊歩する。

頭のなかは、脳みそ半分。
LSDで想い描いた景色は、
お互いに会話をする
言葉さえ無くしてしまい、
延々と続く沈黙の中で
まるで修行僧のように寡黙である。

………………………………

【のうみそはんぶん】

ぶんぶんぶん ぶらさげて
ノーノーノー  のうみそはんぶん

ちょっとそこの地ぞうさん
のうみそはんぶんぶらさげて
どこまでいくのか流されて
ああただの石かい
ちょっとそこの地ぞうさん
おれの願いを聞いとくれ
のうみそはんぶん

ぶんぶんぶん ぶらさげて
ノーノーノー  のうみそはんぶん

LSDをのみすぎて
頭ギラギラおかしいかぎり
こんな話があるものか
絵が描けるものか
LSDよ さようなら
のうみそはんぶんぶらさげて
どんな会話できるのか
頭ギラギラ ゲン覚中

ノーノーノー  のうみそはんぶん
ぶんぶんぶん のうみそはんぶん

地獄の底までつきあうか
線香の匂かいでおけ
天国でまた会うか
死なずに生きたことを
よろこばなければいけないな

のうみそはんぶんぶらさげて
ぶんぶんぶん 会話中

詩/柴田和志(チャー坊)

………………………………

小憎らしくて無邪気で
生意気な存在だったが、
チャー坊の持つ
芸術的な感性に
冨士夫は憧れていたのだと思う。

小悪魔のように幾つかの
顔を使い分ける感性は、
決して作ろうと想って
作れるものではない。

現に、僕が接した時のチャー坊は、
まるで気の弱い女の子のようだった。
照れながらライブハウスの
角でモジモジしている姿に、

「冨士夫からは “帰ってくれ!”と、言われてます」

とは宣言できないだろう。

冨士夫などは先刻承知で、

「そーゆーパフォーマンスで来るから、誤摩化されずに、しっかりと帰ってもらうよーに」

と言われていたのだが、
実際に対峙するとソレはできない。

怒った冨士夫が、
「もう、いいよ、俺が断ってくるから!」

とか言いながら、
結局は仲良くミューズホールの
ステージに上げてしまったように、
チャー坊は独特の人ったらし術を
会得しているのである。

あのとき、
チャー坊は音楽を再開したかったのだ。

「冨士夫ちゃん、もういちど、むらはちぶをやらへんけ」

言葉には出さなかったが、
『TEARDROPS』のステージで
チャー坊がスキップをしたとき、
見た事も無い甘美な粉があとを引き、
冨士夫に降りかかるのを感じたのである。

あのままチャー坊の誘いに乗ったら、
どうなっていたのだろうか?

あたりの景色はたちまち変わるのだろう。
冨士夫の姿が『村八分』になり、
その背中に乗ったチャー坊が舌を出す。
ザワザワと見た事も無い輩が
鼻からちょうちんぶら下げて、
在る事無い事言い出したあげくに
どこかのレーベルと契約をし、
メンバーの活動と権利関係が
ぐるぐると空回りをし、
誰が上で誰が下かを論じたあげくに、
なめたなめられないで、
結局は何かをなめる
ハメになるのである。

だから、冨士夫は断じて
ソレを拒否した。
『TEARDROPS』があったからだが、
再びチャー坊と絡む気力が
失せていたのかも知れない。

だから、どこかでいつも
チャー坊のことを気にしながらも、
遠くから眺めることにしたのである。

………………………………

さて、ここからは、
その後のチャー坊の話である。

結局、´90年にチャー坊は、
再び『村八分』を結成した。
冨士夫に代わるギターの切り札は、
ミッキーこと松田幹夫さんである。

しかし、この時の『村八分』は、
ミッキーさんの体調不良のために
´91年に解体されてしまう。

再びチャー坊はメンバーを探した。
『村八分』´79年のときの
ドラマーだったSさんや、
´91年のときの
ギターだったOさんを中心に、
新生『村八分』は結成されたのである。

´90年に京都大学軽音部の
クラブボックスが火災にあって、
その場所で“焼け跡ライブ”という
野外ライブが行なわれる。

『ボ・ガンボス』は、
この軽音出身という縁で、
積極的に出演していたというが、
新生『村八分』を
描き出していたチャー坊も
時を同じくして動き出したのだった。

“10年ちょい前、
おれは京都でバンドを始めたばかりで、
来る日も来る日も
ボロボロの練習場で
ガンガン演奏してたのだが、
ある日、真っ黒い服を着た
髪のボサボサ不気味な兄ちゃんが、
フラフラと現れ、
おれたちの演奏に合わせて
マラカスをシャカシャカ振り始めた。
何も言わずにヨロヨロして兄ちゃんは、
おれたちのライブにもやってきて
ずっとマラカスを振って、
終わると
「ありがとう。楽しかったワ」
と言って去っていった。
「誰や?あの人は」
と聞くと
先輩の男が
「あれは村八分というスゴイバンドのボーカルやったチャー坊という強力な奴だ。」
と教えてくれた。”

チャー坊が逝った後、
沖縄に住み始めていた
『ボ・ガンボス』のどんとが、
自身のブログに綴った
文章の一節である。

冨士夫とも大の仲良しだったどんとは、
チャー坊が率いる新生『村八分』とも、
幾度となくジョイントしているのだった。

………………………………

冬晴れの木漏れ日をぬって、
秋川渓谷にある温泉に到着した。
まずは野外で足湯に浸かりながら、
浮き世の憂さを温めることにする。

「ああ見えて、チャー坊はしっかりしてたんだよな」

軽いスポット照明のように、
木々の隙間から流れくる
日光の線に目を細めながら、
笑うように冨士夫が呟いた。

「俺たちの生活からライヴまで、よくやっていたと思うよ」

思い起こす出来事は、
とめどもなく流れ出て、
今を行き交う想いと合い混じり、
暖かくなったり、
冷たくなったりする。

「なんだかんだ言っても、冨士夫はチャー坊が好きだよね」

切りが無いので、
区切りを打つための言葉を投げてみた。

「それはどうかな」

そう言うと冨士夫は、
足首まで浸かった湯を
もてあそびながら、
一瞬遠くを眺める仕草をした。

そして、“ふふっ”と
コチラに向き直ると、
実に意地悪そうに笑うのだった。

………………………………

さて、
今年の4月25日で、
チャー坊こと柴田和志氏が
急逝して25年になるのだという。

実に四半世紀が経つのだ。

そこでである、
当時の村八分のメンバーが、
“元メンバーの端くれとして”
追悼イベントを企画している。

場所は、京都『拾得』。
2019年4月25日木曜(命日)
に行なわれる。

“よっちゃん”こと、
加藤義明氏(ex村八分)と、
花田裕之氏(ルースターズ)
の2人が出演を快諾してくれた。

前売り3000円、当日3500円で、
17:30開場 19:00開演 。

四半世紀振りに、
チャー坊を拝みながら
墓参りでもしてみようか。

とにかく、春になったら、
久し振りに
京都に行っても良いと
思っているのだ。

(チャー坊話は次回も続きます)

(1990年〜今)

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