056 番外編『村八分/前夜・後編/恒田義見』/ What a Shame : The Rolling Stones

1970年7月26日、富士急ハイランドで
『ロック・イン・ハイランド』が行われた。
日本初の野外キャンプ・イン・ライヴだったのだが、
観客よりもマスコミやカメラマンのほうが
多かったと伝えられている。

『ちょうど「裸のラリーズ」が出て来て
「ギミー・シェルター」を演奏し始めた時、
案の定カメラマンの人だかりができてしまった。
よせばいいのにその中の一人が
カメラを持ってステージに上がっていき
写真を撮り始めた。
その時である、ステージの隅で踊りを踊っていた
不思議な奴がそのカメラマンに向かって
激しいケリを入れた。
それに合わすように曲はブレイクして、
「ミッドナイト・ランブラー」のブレイクに変わり、
カメラマンは鼻血を出しながら
ステージの上から転げ落ちていった。
その事を遠巻きに見ていた僕は
スゴイ奴が現れたと思い、
走ってステージの真ん前まで行き、
その男を見つめた。』

1973年「ヤング・ギター」9月号に掲載された
藤枝静樹氏の一文である。

その不思議な奴とはチャー坊のこと。

『夏だというのに穴の開いたロング・ブーツを履き、
八百屋の前掛けをつけて
胸まで伸ばした長髪を揺らしながら踊っており、
かなり異様に見えた。』

という。
…それって、確かに不思議で異様だ。

恒田さんも、その時のことは
とても印象深く憶えているらしい…。

「それが随分とセンセーショナルに
マスコミに取り上げられて、
京都に危険なバンドがいるって
全国に知れ渡ったんだけど、
そのすぐ後なんだ、
チャー坊がいなくなるのは。
だから、逆にミステリアスな捉え方を
世間がしたんだと思う」

そう、富士急ハイランドの直後に
チャー坊は山に芝刈りに行って、
白黒模様の熊たちに襲われたのだ。
可哀相に、それから何ヵ月も
拉致監禁されることとなる。

チャー坊ヌキの冨士夫(Vo,Gu)、染谷くん(Gu)、
青ちゃん(Ba)、 恒田さん(Vo,Dr)、
のメンバーでのバンド営業活動が始まる。

見渡せば、何のことはない、
全員が東京人だった。
吉祥寺の幻想で演ったり、
京都のキャッツ・アイで演ったりしながら、
不思議で異様なチャー坊が
無事に解放されるのを待っていたのだ。

しかし、その間が恒田さんにとっては
冨士夫と音を出せた
貴重な時間だったのかも知れない。

ストーンズ、ブラインド・フェイス、
ボブ・ディラン、マウンテン…。

「恒田はディランを歌ってたよ」
と、冨士夫は後に語っている。

何ヵ月かして、「シャバはいいでぇ」
なんて言いながら、チャー坊が帰って来る。

「そのときに初めてチャー坊の歌を
まともに聴いたんだ」

そう言って恒田さんは肩をすぼめた。

「チャー坊は、ハーモニカを吹きながらね、
『What a Shame』っていう
ストーンズのナンバーを演ったんだ。
そのときに初めてチャー坊の歌声を
確認したってわけ」

チャー坊が歌い出すと同時に、
村八分の影が見えてくる。

恒田さんによれば、
バンドをマネージメントするようになった
木村さんが「村八分で行くで」って、
言い始めたときから
村八分という名を意識したことになっている。
それは、京都に行って、
1年くらい経ってからということなのだ。

チャー坊が詩を書き始めて、
バンドの芯がしだいに
冨士夫からチャー坊に移っていく。
冨士夫もそれを望んでいて、
チャー坊のオリジナルに
曲をつけていくのだ。

「最初の詩のタイトルを憶えてるんだ。
『誰が神を見たというのか』ってやつでね、
このタイトルは忘れられないなぁ…。
村八分にそんな歌はありませんか?
“ これからは、この歌でいくんや ”って、
チャー坊は随分と張り切ってたから」

「それにつけても
チャー坊は実にチャーミングだった」

と恒田さんは言い換えた。

チャー坊には、品格が備わっているのだという。
それって、何なのだろう?
グルって呼ぶのは宗教っぽくて違ってくる。
儀式的な体験とか、カリスマ性だとか、
もっと人間的に深い感情、深い部分、
うまく言えないけど、
あっち側に行く独特なセンスもある。
一緒に居ると、ホッとできる人間でもあったのだ。

それは、東京人には備わっていない感覚。
当時の京都独特のものだったのかも知れない。

特にフリーゲートは
コミューンみたいなもので、
そこにに居れば、
誰かが必要な物を持って来てくれる。
仲間たちが食べ物を運んで来てくれたり、
面白い情報も入ってくる。
だから、暗黙の了解でお互いをシェアできる
そんな環境が出来上がっていたのだ。
当時の京都には、外国からのヒッピーや
知識人もたくさん居着いていた。
“喰えない者は喰っていける者とシェアしていく”
それは、人間としての
当たり前の考え方だったのかも知れない。

「そこに、言葉にはできない
リアリティがありましたね」

恒田さんは、そう言葉を加えた。

その反面、チャー坊や冨士夫は
とてもピュアだった。
お酒は一滴も呑めない。
女の子と話もできない。
とくに冨士夫なんかは、
女の子に話しかけられると、
みるみる顔が赤くなっていく。
そのあげくに、

「お前な、ファンの女の子に手出したら承知しなぇぞ」
って、凄むんだとか。

“その冨士夫なら、知ってるよ”
ここは、知人、友達、みんながうなずくところだ。

「冨士夫とチャー坊には、
物事の本質を見ろよ
って良く言われた。
言われたというより、
叩き込まれたと言ったほうが
いいのかも知れない」

それは、あのころの京都の独特の感性。
海外から来たヒッピーや知識人が伝えた、
様々なカルチャー・シーンや、
生きるための考え方などだ。

「だから、見た目だけで判断するなってことだよね。
そこにある本質は何なのか、
見極めるまで納得するなってことなんだ」

音楽の本質だって同じこと。
構造にまどわされるな、
音の本質を見極めろって
冨士夫が教えてくれて、
その後の音楽をやっていくうえで、
すごい指針になったのだという。

そうやって極めていったら、
今やっている和太鼓につながって
いったのかも知れない。

そう言って、恒田さんは一息ついた。

…………………………………………

そう、恒田さんはいま、
和太鼓を中心に活動している。
この夏もニューヨーク公演をやってきた。
和太鼓の師匠なのだ。
世界各国に弟子がいて、
その人たちに教えているのだとか。
ライヴは年に1〜2回、
文化庁の後援による海外公演が多い。

「ライヴの時は70年代から一緒にやってきた
ロックな仲間ともやるんだけどね」

ちなみに、そのロックな仲間には、
西野恵をはじめとして、
もと四人囃子から岡井大二、坂下秀実。
BOφWYにいた高橋まこと。
もと、ジューシィ・フルーツのイリア。
CM音楽の制作やプロデュースを
数多く手掛ける、
長沢ヒロたちが含まれている。

…………………………………………

最後に、村八分を辞めた理由について聞いてみた。

「理由? そうだな……、
辞めざるをえなかった
っていうのが本音ですね。
僕には見えなかったんでしょうね、
村八分の良さが…。」

ほんとうは、格別に辞めようとは
思っていなかったようだ。
ただ、チャー坊の持つビジョンが
恒田さんと違ってきていた。
恒田さんはもっと現実的だったのだ。

それと、チャー坊自身が
とても京都にこだわっていて、
京都の人間でバンドを創りたがっていた。
そこに、ユカリさん
(上原ユカリ/村八分二代目Dr)も現れてくる。

「若かったから、
いろんな想いが錯綜しました。
ユカリさんが良いドラマーだって
いうのも聞いていたし、
僕自身、村八分に対するこだわりが、
そんなに深いわけではなかった。
それと、ホームシック。
東京の連中が懐かしくなっちゃってね」

そう言って、苦笑いする恒田さんなのだが、
今でも、思い出す度に幾つもの本音に
気づかされるのだという。

そこには、落ち込んだ自分もいる。
“あぁ、もう俺は駄目かなぁ…”なんて。

でも、そうこうしてるうちに、
仲間たちが寄って来て、
セッションによる応急手当をしてくれた。

その中に近田春夫さんもいた。
近田さんは限りなくブラックに近いジョークで、
「ローリング・ストーンズみたいなバンドがやりたいんだ」
って言ってきた。

「そんな気ぜんぜんないくせに、
よく言うよって感じで、
最初はそのニュアンスにはのらなかったの。
だってそうでしょ。
チャー坊と冨士夫と一緒にやったあとに、
ローリング・ストーンズはないでしょ、って(笑)
………………。
でも、そんなことを言う近田が面白そうだった。
その誘いにのることにしたんだ」

ハルヲフォンの誕生である。

大ブーイング覚悟で言うなら、
という前おき付きで、
チャー坊も冨士夫も近田さんも、
光るオーラは同じものを持っていたという。
センスとかは別のお話として……。
片方は客の方を向いて、
片方はまったく向かなかったというだけで、
音楽に対する取組はどちらも真剣だった。
その両方を見られて良かったなと思っている、…と。

「冨士夫やチャー坊を思い出すとね、
どうしようもなくだらしない時もあったりして、
仕事に対する姿勢も違うけれど、
そんなことじゃない人間の品性があるんだ。
例えば、何かを求めたときに、
極限までいかなきゃわからない品性。
僕はとてもじゃないけど
そんなところには行けなかった(笑)。
だけどね、冨士夫のギターだけは残っている。
一緒にやった経験だけは本物だったから。
………………
それと、もうひとつ。
ずっと、知りたかったことがあるんです」

そう言って恒田さんは、またひと呼吸おいた。

「僕のあとに村八分に入ったユカリさんは
どうだったのか?
一度、話をしてみたいと思うんだ」

そう言って、コチラを直視するので、

「ユカリさんと話したことは?」

と、聞いてみた。

「ないですね、まだ高校生だったのかな?
彼はとても若かった。
フリーゲートで見かけた記憶しかない……」

…………………………………………

そこまでで、
この日の恒田さんとは別れたのだが、
家に帰り、ユカリさんを知っている
知人にお願いしてみた。

村八分の最初のドラマー・恒田さんと
話をしてもらえるように、
ユカリさんに頼んでもらえませんか?……って。

……で、結果は良好。

10月6日、その夜に二人は会うことになった。
46年の時間をさかのぼって……、
驚いたことに、初めてのよもヤバ話をする。

……それは、時空を越えた村八分への旅……。

それでは、そのときにまた、
果てしない よもヤバ話の続きでも……。

つづく

(2016/09/21 高円寺)

PS.

【よもヤバNight Party】
11月3日( 文化の日 )原宿/クロコダイル
※よもヤバトークShow/村八分トーク【出演;恒田義見 & 加藤義明】
■LIVE/●THE BEGGARS & 恒田義見 & 加藤義明(ex村八分 )
●The Ding A Lings ●VESSE
18;00/OPEN  19;00/START
Charge;3,000/3,500
前売り予約/kasuyaimpact@yahoo.co.jp まで
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