039「ハッシー現わる!/飛んで火に入る東芝EMI」

039「ハッシー現わる!/飛んで火に入る東芝EMI」/その点Shakin’

目の前に、いかにもエリート風なエナジーを
かもしだす40絡みの紳士が立っている。
「いやぁ、実にハッピーだったよ!」
と言いながら手を叩いてよこした。
“ハッピー ?!  そんな言葉 使うか? いまどき”
なんて思いながら、愛想笑いをしていると、
「特に、あのヴォーカルの人、演歌心があるね。
いやぁ、実に良かった」
と、ベタ誉めだ。
「あっ、ありがとうございます」
と、ここでやっと挨拶を返すことができ、
念のために今一度聞き返した。

「あの、演歌心ですか?」

「?!」……紳士は笑顔だった。
そのまま、しなりとうなずくと、
ブランド物の黄色い長財布から名刺を取り出し、
「前向きに進めましょう」
と言いながら、それをこちらに手渡した。
「後日、連絡をいたしますので」
と言う言葉に、 はっ! として、
「あっ、すみません、よろしくお願いします」
と、やっとこちらも名刺も渡せたのである。

楽屋に戻りながら、今一度、
受け取った名刺に目を落としてみた。
【東芝EMI(株)制作統括本部長】
随分と偉そうな肩書が書いてある。
急いで楽屋に戻って、
着替え中の冨士夫に声をかけた。
「東芝EMI、来たよ」
冨士夫 はこちらに目線を向けないまま聞いてきた。
「ほぅ、どうだった?」
「前向きに検討するって言ってる」
タオルでステージの汗を拭いながら
「わかった」
と、つぶやく冨士夫がなんかそっけなかったので、
「冨士夫には演歌心があるってさ(笑)」
っという笑い話を付け加えてみる。
「なんだ、それ?」
って苦笑をしてみせたが、まんざらでもなさそうだ。
なんか不思議なリアクションだった。

まぁ、もともと冨士夫は、
メジャーなんてどうでもいいのだ。
自身がマイノリティであることも知っている。
『ダイナマイツ』以降、ずっとそうやって来たのだ。
だけど、ここへきて時代の風向きが違ってきた。
この“イケイケ時代”の軌道に
乗っかってみてもいいんじゃないか !?
そんな感じもあったのだと思う。
もしかすると、こちらに判断をゆだねているのかも知れない。
なんか、そんな気もしていた。

「東芝EMIの人が行くからね、招待リストに入れといて」
と言われたのは、ライヴの一週間前くらいだった。
さりげなくMが電話で伝えてきたのだ。
Mはちょっと熱帯島風の可愛い娘、
メンバーの関係者である。
このときは新宿の店でアルバイトをしていた。
つまり、「東芝EMIの人」というのは、
Mのお客さんというわけだ。

しめしめ……“飛んで火に入る夏の虫”

夏真にタダ酔うムシは罠にはまると決まっておる。
それでなくとも、世間はムシ暑い。
7月23日の『インクスティック・芝浦ファクトリー』
にも、たくさんの夏の虫が寄ってきていたのだ。
TEARDROPSには、大きな網はなかったが、
強力なトリモチ竿が仕掛けてある。
知らずにうっかり寄って来たりすると、
運命の糸が絡んできて取れなくなるのだ。
たいがいの人は知らずに行き過ぎて行くのだが、
急いで行き交う人の流れに疑問を持った、
少数妄想派などがよく引っ掛かってくる。

「気をつけろよ Baby」

冨士夫は、いつもそう歌いかけていた。

ところで、この紳士だが、
ここでは『ハッシー』と呼ぶ事にする。

ハッシーは当時、東芝EMI制作のトップだった。
だが、トップだからといって
ロックに詳しいとは限らない。
いうなればハッシーは、
クラシック畑の慶応ボーイといったところか。
TEARDROPSを見たらハッピーな気分になり、
冨士夫に演歌心を感じた独特な感性も、
なるほど、うなずけるところではある。

その、ハッシーからの「前向きな連絡」は、
実に8月10日、冨士夫の誕生日にきた。
(偶然というには、あまりにも運命的 !?)
翌8月11日に、僕は一人で、
溜池にあった東芝EMIの本社に出向いた。
メンバーは八ヶ岳(いのちの祭り)から
戻ったばかりで、全員バテていたからだ。

そこでハッシーは、ひとつだけ確認してきた。
「クスリはやってませんね?」
さっそく、こちらの得体が知れたのだ。
そりゃあ、そうだろう。
“冨士夫は大好きだけど、扱いたくはない”
それが、この頃のメジャーの常識だった。
山口冨士夫はパンドラの箱、そんな存在だったのだ。
それをいま、なにも知らない紳士が
こじ開けようとしている。

「クスリですか?ドラッグとは永久に縁を切りました」

こうゆうことは、はっきりとさりげなく言い切ったほうがいい。
どうせ先の事はお釈迦様でもわかりゃしないのだ。
私自身の進退をかけても大丈夫か?
みたいなことを続けて聞かれたような記憶がある。
「信じてもらって大丈夫です」
少し、自分に悪酔いしながら答えていた。

後に、TEARDROPSの担当になった
ディレクターM氏が言っていた。
ハッシーが制作会議でTEARDROPSを持ち出したとき、
会議に出席していた全員が反対したらしい。
契約してはイケナイ。
あなたが開けようとしている箱はパンドラの箱。
その理由をみんなでハッシーに伝えたという。
するとハッシーはこう言った。

「それなら、私が責任を持ちます」

何故、それほどまでにハッシーは
冨士夫のことを気に入ったのだろうか?
前途したように、この時のハッシーは制作本部長だ。
翌年には法務部長へと昇進になり、
所属アーティストの契約いっさいを
取り仕切る立場となる。
順当にいけば、ゆくゆくは役員候補だ。
まだ40代半ばのこの紳士は、
東芝EMIに在籍した3年の間ずっと、
いい加減な僕らの味方になってくれた。

「冨士夫は私と似ているところがある」

と、ハッシーがありえない言葉を
つま弾くことがあった。
酒に酔った上での戯れ言ではあったが、
見るからに冨士夫とは対照的なこの紳士の中にも、
冨士夫の本音に共鳴するところがあったのかも知れない。

ハッシーが登場しなければ、
TEARDROPSがメジャーにいくことはなかっただろう。
3年契約に3枚のアルバム。
それに伴う営業とパブリシティ。
それら総てが強制的に付いてきた。

僕には、ハッシーとの呑み会が付いてきた。
六本木、赤坂、新宿……。
はたまたハッシーの自宅のキッチンまで行き着き、
夜中から朝方まで付き合った。
それは、あろうことか3年契約が
終わってからも続いたのだ。
毎月のように会い、よく呑んだものだった。

10年ほど前になるだろうか、
ハッシーは、神奈川の奥に引っ越してしまい
僕らは、会うことも少なくなってしまったが、
折に触れて今でも連絡だけはとっている。

先日、僕は誕生日を迎えた。
もう、祝うような年でもないので、
もはや何事もなくやり過ごしたい気分なのだが、
子供たちや身内からのメッセージは、
なんだか、妙に嬉しい。

その誕生日の翌朝、
携帯を見てみると、一通のメールが届いていた。

“一日おくれではありますが、
 お誕生日おめでとうございます”

 ハッシーからだった。

とたんに、
『ハッピー』が、込み上げてきた。

(1988年夏〜冬)

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