113『忌野清志郎(さん)の幻影』【FM大阪】忌野清志郎の夜をぶっ飛ばせ (ゲスト・山口冨士夫) part 1 of 2

東京の西のはて、
西多摩郡の日ノ出町へと行く。

秋川街道を折れ、
平井川の源流を左に眺めながら
ドライブすれば、
そこはもう山里である。

東京であることを忘れるほど
せまりくる緑を感じながら、
胸いっぱいに自然を吸い込む。

「おかげさまで、気を取り戻したよ」

竹林からの風を感じながら、
冨士夫が大きく伸びをした。

身体を壊し、生死を彷徨い、
一時は自暴自棄になった
冨士夫ではあったが、
クロコダイルの西さんや、
周りの人たちのあったかい
気持ちのおかげで、
なんとか笑顔も取り戻しつつあったのだ。

「こんにちは、山口不死身です」

そんな、笑えない
ブラックジョークを言いながら、
焚き火に薪をくべる冨士夫。
もう5月だというのに
山里の朝夕は
まだ寒さが残っていた。

このときの冨士夫は、
緑の中で暮らしていたのだ。
クロコダイルのオーナーだった
ガンさん所有のバンガローをお借りして
生活していたのである。

TVもネットもない暮らしは
意外と快適で、
世の中に流れる情報のほとんどが
生きるのに不必要であることを
実感させられていた。

「そうか、世間は連休なんだな」

そんな、のんびりとした表情で、
流れ行く1日を
ごく自然に過ごしている午後だった。

ふと山から降りおりてく
一陣の風のように、
清志郎さんの訃報が届いたのである。

それを聞いた冨士夫の表情が、
一瞬、痛いように歪んだのを覚えている。

なんとも悔しかったのだろう。
何も言わずに
竹林の深い茂みに向かって
歩いて行ったのだった。

………………………………

もともと冨士夫は、
清志郎さんと何処で
知り合ったのだろうか?

きっと、とおーいエレック時代に
すれ違ったことがあるのかも知れないが、
僕の知る限りは、
KJLC(清志郎&ジョニー、ルイス、チャー)
と一緒になった、
1986年の九州の玄界灘でのイベントが
最初だったような気がする。

その時の冨士夫は
シーナ&ロケッツの
ゲストとして帯同していた。

加部さん(加部正義)を訪ねて
楽屋代わりになっていた
ホテルの一室に通されたときだった。

加部さんやジョニー吉長さん、
チャーさんと共に
清志郎さんもその室内に居た。
しかし、冨士夫が入って行くと、
清志郎さんは瞬間的にスッと、
冨士夫の横をすり抜けるように
部屋を出て行ってしまったのである。

それは、きっと、
加部さんたちの手前もあり、
周りに遠慮をした
行動だったのだろう。
(もしかすると、冨士夫と出くわして、清志郎さん独特の危険察知能力が働いたのかも知れないが…)

そのあと、
冨士夫と清志郎さんは
軽い挨拶をかわしたのだが、
このときはその程度の
ことだったのである。

それが、2年後のクロコダイルで
いきなりの再会となる。

結成したばかりの
TEARDROPSのライヴに
ジョニー・サンダースが
飛び入りすることになっていたので、
店の裏口を開けて待っていたら、
そこから飛び入って来たのは、
あろうことか、
忌野清志郎さんだったのだ。

予期せぬ楽屋への来訪者に、
本番寸前のメンバーたちはザワめいた。
しかし、そこはTEARDROPS、
何があっても動じない面子である。

「いったい、何がどうしたんだい?」が、

「どうせなら、何か1曲歌っていきなよ」

って、曲選びにすり替わるまで、
さほどの時間はかからなかった。

結局、その夜のTEARDROPSの
ステージのしょっぱなから、
いきなり清志郎さんがゲストで登場し、
『Stand by Me』を歌っている最中に、
裏口から来るはずだった
ジョニー・サンダースが、
客と一緒にオモテから
ピンクのスーツ姿で
雪崩れ込んで来たのである。

会場は大パニックになった。
こうなったらハチャメチャでいいのだ。
段取りもへったくれもあったもんじゃない。

“良い意味でのアクシデントは、
作ろうとして作れるもんじゃない”
そんな感じの夜になったのだ。

それが、冨士夫と清志郎さんの
2度目の縁だったのである。

「冨士夫ちゃんもレコーディングに参加してよ」

と言う約束事を残し、
その夜の清志郎さんは去って行った。
そのかたわらには
大きく目を見開いた
ジョニー・サンダースが、

「See You Fujio!」

って、怒ったように口を尖らせながら、
笑っていたのが印象に残っている。

つまりは、清志郎さんは
ジョニー・サンダースが欲しかったのだ。
『Covers』のレコーディングに
参加させたかったのである。
一緒に出演していた渋谷のイベントから、
ジョニー・サンダースに引っ付いて来たら、
ソコはTEARDROPSのライヴだった、
というワケなのだった。

清志郎さんの、
この行き当たりバッタリの執念には
ほとほと感服するが、
ついでといっちゃなんだが、
我が、山口冨士夫まで
釣り上げて行くなんて、
並の太公望に出来ることじゃない。

この日交わした約束の通りに、
冨士夫は数日後、
RCサクセション『Covers』の
レコーディングに参加し、
そのお返しとして清志郎さんは、
TEARDROPSのファースト・アルバムに
飛び込んでくれたのだった。

その後、コチラが東芝EMIと
契約したこともあるが、
清志郎さんは一片の詩を
冨士夫にプレゼントして
くれることになった。

『谷間のうた』である。

物事というものは、
時として重なって見えるものである。
まったく別にうごめいていたものが、
ある時ひとつになっていくのだ。

冨士夫の部屋のファックスに、
何の前触れも無く
この一片の詩が流れてきたとき、
その悪戯っぽい詩の内容に
冨士夫は正直いって戸惑っていた。

♪谷間にしげる森の奥
秘密の泉があるという
きれいな花が咲くらしい
泉のフチにぼくは立つ

甘い香りにさそわれて
ツボミにそっとキスをする
岸辺の草ムラさわってたら
泉の水がもうあふれちゃう

AH キツク抱きしめて
OH 何度でも行かせて
AH キツク抱きしめてくれ
OH 何度でも何度でも行かせて

「おい…、この詩にどうやって曲をつけたらいいんだい?」

さすがの冨士夫も途方に暮れた。

そこに、スライ&ロビーの
日本でのコーディネートをしていた
久保田麻琴さんから、

「スラロビを使ってレコーディングしない?」

って誘いがくる。

そりゃあ、グッドな話ではないか。
忌野清志郎の詩に曲をつけ、
スラロビを使って録音すれば、
TEARDROPSの認知度も
格段にアップするはずである。

いや、そのはずである。
夏のシングルはコレで決まり。
即行で行こうじゃない。
先攻逃げ切り!ってか?!

「おいおい、まだ曲ができてないんだぜ」

ボソッと、
当日のスタジオに向かう車中で呟いて、
皆を驚かせてくれた
冨士夫ちゃんだったが、
即興でもなんでも大丈夫、
本番でビシッっと
決めてくれればヨイのである。

こうして、
いくつもの要素が重なって、
あっという間に誕生した
『谷間のうた』だったが、

発売されると、
もうひとつ大きな
付加価値が付いたのである。

某FM局で放送禁止になったのだ。
(詩が猥褻であるという)

これを、誠に遺憾に想ったのか、
はたまた逆に、
勢いにしちまおうと
たくらんだのかは知らないが、
忌野清志郎に瓜ふたつのゼリーが、
タイマーズ大暴れのテーマに
この話題を持ってくる。

そして、
『夜のヒットスタジオ』で大暴れしたのだ。

この、放送禁止用語の上塗りをした
タイマーズの大パフォーマンスは、
まさに芸術的だったといってもイイだろう。
(ああ、すっきりした)

生放送でのあんなおもろい瞬間は、
後にも先にも、
見れないかも知れない。

おかげで、その年の学園祭は
TEARDROPSに何倍もの
出演依頼が飛び込んでくる。

ただし、
「タイマーズさんと一緒にお願いします」
という、のし付きが多かった。

まぁ、その出演パターンとして
TEARDROPSが会場を暖めて
タイマーズでドッカ〜ンと爆発する。
そんな図式が見え見えだったのだ。

成城大学のステージだったか、

「今日はもうやんねぇ」

と、ついに冨士夫が言い出した。

「こんだけやりゃあ、もういいだろう」

と、アンコールを拒否したのであった。

言葉には出さなかったが、
理由は明確だった。
このパターンに飽きたのである。

しかし、それでも冨士夫は
清志郎さんに気を遣っていたのだ。
ヴォーカリストとしても尊敬していた。
あらゆる人に対して
何かと噛み付き癖のある冨士夫だったが、
清志郎さんに対してだけは、
何故か文句を言わなかったのである。

………………………………

「俺はヴォーカリストなんだ」

ギタリストだった冨士夫は、
常々そう言っては、
歌う自分を模索していた。

タンブリングスの初期までは、
なんとなくヴォーカリストを
探している節があったのだが、
どうやら想い浮かぶキャラに
出会えないことを確信したかのように、
自分自身にヴォーカリストとしての
姿を投影していく。

それは、不自然にも映るときがあった。
本来のギタリストである自分と、
模索するヴォーカリスト像が
無理矢理に混在するからである。

それが、TEARDROPSを
始めようとするときの
冨士夫に顕著に現れた。

「愛し合ってるかーい?」

とまでは言わなかったが、
山口冨士夫が忌野清志郎節に
なっていったのだ。

TEARDROPSを始めるにあたって、
村八分の流れからくる
コワモテで近寄りがたいイメージを
払拭したいという想いもあった。

もう、ジャンキーで気まぐれな
ロックンローラーでは
いられないのである。

「ほんとうの冨士夫さんって、馬鹿丁寧で良い人なんですね」

出会う人たちが、
驚いたように冨士夫の実像を評した。

冨士夫自身も、
なるべく周りのミュージシャンを
リスペクトしようと努めるようにする。

そんなとき、冨士夫は
『Covers』の発売記念コンサートに呼ばれた。

様々なゲストミュージシャンたちが
ザワザワと集う楽屋の中で、
伝説扱いの冨士夫は、
その日の注目の的だった。

そのうち、ARBのキースさんが
「冨士夫さん、握手してください」
と、恐縮した表情で求めてきた。

「冨士夫さん、俺、キースです、俺のこと、知ってますか?」

「もちろんだよ」

「ほんとうですか?嬉しいなぁ!」

「当たり前じゃねぇか、けっこう良いギター弾くよなぁ」

その瞬間、何気に楽屋にいた
ほとんどの人がコチラを見た。
清志郎さんが何とも痛い笑顔を
していたのを覚えている。

それほどに冨士夫は緊張していたのである。
良い人になるってのも楽じゃないのだ。

「ねぇ、冨士夫、キースさんって、ARBのドラマーだよ」

小声で教えてやると、
冨士夫の顔がみるみる
真っ赤になっていった。

あわてて、
少し離れたところで準備をする
キースさんを目で追って、
手を合わせる冨士夫。

それを”なんでもない”
とでも言うように、
笑顔で返すキースさんの姿が、
今でも印象深く残っている。

………………………………

誰でも生きて行く過程で、
様々な自分自身を模索していく。

あるときはストイックなほどに
ギリギリまで自分を追い求め、
また、あるときは、
怠惰で自由な自分を
際限なく誉めたりもするのだ。

でも、そのどちらも
まぎれもない自分自身なのである。

だから、ほんとうは、
変わったり、
変わらなかったりするのは、
常に周りでうごめく
環境のほうなのかも知れない。
僕ら自身の本心は
いつも自分であり続けていたいと
感じているだけなのだから。

「山口冨士夫は、存在自体が非常識」

EMIスタジオのロビーで、
突然に思いついたように、
清志郎さんはそう言い放った。

それ以上の意味合いは
言わなかったが、
冨士夫にはしっかりと
伝わったようだった。

その時の冨士夫は、
手に持っていた煙草に火をつけると、
いかにも愉しげに大きく煙を吐いた。

「実は俺もなんだけどね」

そう言って、
悪戯っぽく笑う
清志郎さんの姿が忘れられない。

僕はその瞬間の二人の光景を、
永遠に憶えているのだろう。
(1986年〜2009年5月2日)

PS/
hiconakaがツイートした
FM大阪での清志郎さんの番組を
懐かしく聞いた。
あの頃は確か、まだEMIに入る前で、
冨士夫にとっては久々の
メディア出演だったのだと思う。
思い起こせば、冨士夫の人生で
この頃だけ清志郎さんたちと
同じレールに乗っていた。
鮎川さん(鮎川誠)が
引っ張り上げてくれた車輛には、
清志郎さんをはじめ、
どんとや泉谷さんから中島らもさんまで、
実に多彩な顔ぶれが
乗り合わせることになる。
3〜4年ほど忙しない路線を
走った冨士夫は、
「やっぱり、居心地がわるいわ」
とでも言うように
もといた海に帰り、
自分の船に戻るのだ。

この清志郎さんのFMに
出演するときの冨士夫は、
乗り馴れない乗り物に
乗り始めたタイミングの、
緊張感満載なときだったのである。

この頃の僕はまだ
出版関係の仕事がメインだった。
香港マフィアを取材するため、
九龍城に潜入し、
殺人請け負い人の
目が腐った人物をインタビューして、
土産にブランドウォッチを買い込み、
それを冨士夫やエミリにあげていた。

「おい、トシ、あのロレックス、すぐに壊れたんだけど…」

FM大阪に出演した後の居酒屋で、
笑いながら文句を言ってきた
路線に乗り切れていない
初々しい冨士夫が懐かしい。

 

 

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