137『三田祭』もうひとつの村八分4/村瀬シゲト

“ガシャン!”
というガラス瓶の割れる音と共に
投げ込まれた火炎瓶が爆発した。

どこのセクトかも解らぬ過激派が、
散発的な主張を続けていたのである。

間抜けなのは、
そこらの日常的な火炎瓶など
“へ”とも思わない学生たちが、
燃え盛る炎に向かって
いっせいに集まって来て
暖まっていることだった。

それほどまでに寒かったのだ。
11月も終わりに近づいた東京は、
日暮れからの北風が身体を突き、
凍えるほどであったのだ。

1972年11月23日、
慶応義塾大学三田祭における
前夜祭のライブは2カ所で行れ、
教室の中では浅川マキが、
中庭に設置した野外ステージでは
『頭脳警察』が学生からの
投石をかいくぐり、
デンジャラスなるステージを
終えたばかりであった。

「やってられねぇよ」

ってステージから下がって来る
『頭脳警察』のパンタさんが
言ったかどうかは定かではないが、
すれ違うかのように
ギター片手にステージに向かう冨士夫が、
次なるシーンの一切を
握っているかのようだった。

会場となった中庭には、
音楽好きでノンポリの学生に混じって、
明らかに政治思想を持った
確信犯達が騒ぎたがっている。

『頭脳警察』は当時、
日大系の学生運動との
つながりが噂されていた。
(真相は解らないが)

『村八分』は言わずと知れた
京大左翼押しの看板バンドである。

(メンバーたちにそーゆー特別な思想はなかったのだが、チャー坊は「俺たちは一応、反体制のグループだから」と、協力してくれていた京大を気遣っていた節がある)

それらを目当てにしたであろう
左寄りの学生なども入り乱れて、
数百人が詰め掛けた会場には、
石や火炎瓶などが投げ込まれ、
酒に酔った客がステージに乱入し、
騒然となる雰囲気をかもし出していたのだ。

さらなる危険を察知したスタッフが
イベントを続行すべきかどうか
検討しているその時だった。

「楽屋に居たらさ、なんかステージの方で騒ぎがあって、頭脳警察の演奏が途中で止まっちゃった、っていうんだよ。それで、どうなってんのか冨士夫が見に行ったんだよ。そうしたら、頭脳警察が(最後まで演らずに?)突然に下がっちまって、会場では客たちがクラップしてるって状態だったみたい。それを俺は後から聞いたんだけどね(笑)。いろいろと、なんかしら飛んでて、な〜んも憶えてないんだ。 なんか、やたらに興奮してた憶えはあるんだけどな(笑)」

そんなわけで、
シゲトさんに対する
『三田際』のインタビューは
わずか数分で終わっていた。

「ステージに行く冨士夫に続いて、俺も出て行くんだけど、可笑しいよね、ナァンにも憶えちゃいないんだ。それどころか、コンサート自体も憶えていない。まったく記憶が飛んじまっているんだよ。それでもドラムは叩いたんだよね(笑)。それは飛んでてもできるってことなんだよな(笑)」

それでは、
代わりに当時の様子を探ってみよう。

ステージには赤い絨毯が敷いてあった。
それは先の円山音楽堂で
『村八分』が使ったもので、
チャー坊のお気に入りだったのだ。

冨士夫曰く、
「権力志向のチャー坊に似合っていた」
ということである。

ロックバンドは、
「音楽よりもまず恰好良ければイイんだ」
と言い放つ冨士夫だが、
言葉とはウラハラに、
音楽の要は冨士夫自身にあったのである。

「あの日、会場が興奮状態にあったから、あえて一曲目は『草臥れて』にしたんだ」

と、ステージに入る曲を
スローナンバーにしようと
冷静に判断したという
冨士夫の話を聞いて、

「奴は憶えてるんだろうね、どんなに飛んでてもさ。こっちは、奴について行きゃあいいんだって感じしかなんだから(笑)」

とシゲトさんは、なおも笑う。

よっちゃんは、
左翼系学生たちがステージに
向かって投げる石を、
巧みに避けながらギターを弾く
テッちゃんの勇姿が
印象に残っていると言う。

ステージの中頃、
『にげろ』の演奏中に
チャー坊が客を怒鳴りつけるのだが、
それはステージに向かって
石を投げる観客に対してのものだった。

そんな混沌とした状況の中、
『ドラネコ』の演奏中に

「世の中全てやり直し、右も左もやり直し」

と即興の歌詞を放ったチャー坊。

暴徒化する一歩手前の聴衆を
まるで操るかのように解き放っていった。

そこに冨士夫が奏でる
シャープな演奏が重なっていく。

そのシーンには、
50年近く前の
活気と退廃が入り交じった
独特な空気感が存在する。

そんな極寒の中での数時間が、
現在へも伝え続けられているとは、
当時の誰も
想いつかなかっただろう。

…………………………………

ところで、
この貴重なる音源を収録した主は
藤枝(静樹)さんである。

藤枝さんにとっての冨士夫は、
中学時代からの知った顔だ。

「(同じ阿佐ヶ谷育ちで)冨士夫は東原中学で僕は阿佐ヶ谷中学だった。それでよく学校の不良同士の喧嘩になると、あっちからは冨士夫が出てくる。向こうのグループが喧嘩をするために人を集めると、必ず冨士夫の顔がチョコンとあるんだ。僕は、それがとっても印象に残ってるんだよね」

藤枝さんは、
『SO WHAT』のインタビューのとき、
懐かしそうにそう答えていた。

そのうち、
冨士夫たちが通っていた
東原中学出身者で作ったバンド、
『ダイナマイツ』が世に出る。

杉並や練馬の不良っ子達だけでなく、
全国のファンを魅了しながらも、
惜しくも´69年に解散して、
冨士夫自身は『村八分』へと
変貌していくのだが、
そんな冨士夫の存在を追うかのように
藤枝さんも映像カメラを構えているのだ。

「当時の『村八分』の存在は別格で、他のバンドとはまったく違ってたんだ」

藤枝さんは、
『村八分』円山音楽堂のコンサートで
16ミリのカメラをまわしたりしたあと、
この時の三田祭でも
カメラを持ち込んでいるのだった。

藤枝さんが話してくれた
録音現場を想像してみよう。

歓声と罵声が入り交じり、
酔っぱらいと活動家が交差する
荒れてデンジャラスな
オーディエンスの中を、
映像カメラを肩に抱えて、
ステレオのテープレコーダーを
首から下げた藤枝さんが
群衆にもまれながら
録り位置を探している。

ステージ前の
真ん中くらいまで移動すると、
そのまま何とか定位置を確保し、
収録するのだった。

しかし、
ステージが進行していくにつれて、
寒いこともあるのだが、
あろうことか
回りの客が踊り始めた。
勢い余ってぶつかってくるのである。

それを避けながら、
移動しながら録るのは
まさに至難の業だっただろう。

だから当然、
その通りに音も揺れている
というわけなのだ。

当時、
ステレオのレコーダーは
発売されたばかりで、
かなり珍しかった。

「それを買えって迫って来たのは、しのぶ(石丸しのぶ)なんだけどね」

そう言って
藤枝さんは優しげに笑う。

「村八分がすごい好きだったけど、
村八分がすごい恐かったから、
あまり近づかないようにしてた」

のだとか。

そう言いながらも藤枝さんには、
『TEARDROPS』時代も
何かと付き合っていただき、
冨士夫の晩年に至るまで
間を空けずに寄り添っていただいた
貴重なる存在だったのだ。

今度、あらためてゆっくり
お話を聞かせてくださいませ。

…………………………………

さて、
今回はシゲトさんの出番が
極端に少なかったのだが、
何処かに飛んでいたシーン
だったのだから仕方がない。

ちょっと羨ましい気持ちで
ヨシとしようと思う。

次回は『村八分』後の話を中心に、
構成しようと思っています。

今では世界で普通に使う
『KIMONO(着物)』という共通語、
それはシゲトさんから始まったのだとか。

スティックやカメラを
ビジネスに持ち替えての、
村瀬シゲトさんの
ほんとうの“飛躍”が始まるのです。

(1972年/慶応大学)

 

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