115 西麻布Bar『アムリタ』

デザイン会社で働いている頃は、
残業が当たり前だった。
北鎌倉に住んでいたので
23時を過ぎるとソワソワとする。

電車がなくなるのだ。
北鎌倉まではタクシー代も
半端じゃないので
その選択肢はまずありえない。

思わず家族の姿を想い浮かべてみる。

嫁さんと2歳になる可愛い娘が、
台所で戯れている風景が
フッと脳裏に浮かんだりするのだ。

あぁ、いい加減に帰りたいな。
今夜の夕食は何なのだろう?

ん? その向こうに人影が見えるぞ。
誰か居るみたいだ?!
あぁ、あれはエミリだナ。
踊るように食事を運んでいる。

つーことは、
その先に陣取っている大将は?
やっぱりだ。
丸い中華風のちゃぶ台を前にして、
冨士夫がギター片手に
ビールを呑んでいる。
そんな定番の場面が浮かんできた。

コッチの妄想に気がついて、
グラスを持ち上げて
(妄想)カメラ目線で
冨士夫が喋り始めた。

「トシ、残業かぃ? 毎日たいへんだね、おつかれさん。先に一杯やってるよ。ああ、そうだ、ワルいけど帰りに缶ビールを頼めるかなぁ。無くなっちまいそうなんだよ」

ボクはブルブル!っと、
大きくアタマを振った。

「冗談じゃねぇぞ!」

人の気持ちってやつは、
いつのときも裏腹である。
普段はこの居候たちが居る状況を
愉しみながら暮らしているのだが、
時おり心の針は
真逆を向くことがあるのだ。

「ええぃ! 六本木にでも繰り出すか!」

帰宅するのをあきらめ、
残業していた仲間たちと
深夜バス(金もないので)に乗って、
アマンドのある交差点を目指すことにする。

ポケットの中には
クシャクシャになった
数枚の千円札しかないのだが、
“誰かが持ってんだろ”
って、みんなが想っていたりするのだ。

金は、ある奴が出せばいい。
そういう時代だったって気がする。
(誰も持ってなくて焦ったりもするんだけどね)

バスを降りて、
六本木の交差点に行くと、
アマンドの横断歩道の向かい沿いに
黒いワンピースを着た
OKAMAのゴロウチャンが立っている。
この頃の名物人間である。

「アラッ!こんばんは♥」

と挨拶をされ、
すっかり顔見知りなのである。
彼女(彼)は、斜め向かいにある
レンタルルームに連れ込む
客を物色中なのだ。
つまりはお仕事中というわけ。

さて、目指すは、
そこから歩いて2分のところにある
スクエアビルである。
この10階建てのディスコビルの
9階にあった『fou-fou (フーフー)』が、
お目当ての場所なのだ。

フランス語で “気が狂った”を
意味するこのスペースで
ひとしきり遊び終えると、
スクエアビルの手前にある墓地で
涼んだりするのが十八番(おはこ)だった。

振り返ると、
随分とバチ当たりなコースなのだが、
此処で金が尽きるんだから仕方がない。
墓地で皆の有り金を出し合って、
次なる作戦をたて、
六本木通りを渋谷方面へと
ヨタヨタと移動して行くのであった。

後はツケでも呑める
隠れ場(Bar)を求めて
彷徨って行くことになるのだが、
たいがいが霞町(かすみちょう)で、
息絶えるがごとく吹きだまるのが
いつものパターンなのだった。

この、六本木と渋谷、
そのどちらの方面から来ても、
坂の下に現れる交差点は、
江戸時代は武家屋敷が
建ち並ぶ地域だったという。

冬ともなると、
この低地に濃い霧がかかり、
いかにも幻想的な
風景であったらしい。

それが、霞町たる由縁なのだ。

しかし、この地名は
ひと昔前までの名称。

『霧の霞町』は、
とんねるずが歌った
『雨の西麻布』のヒットで
子供までもが知る
ブランドになったのであった。

そう、随分と前から
『西麻布』と呼ばれて
久しい地域なのである。

その西麻布の交差点から表参道へと続く、
細い裏道り沿いにあった
一軒の隠れ店のハナシをしようと思う。

店の名を『アムリタ』といった。

アムリタとはサンスクリット語で、
インド神話に登場する
神秘的な飲料の名であるという。

調べてみると、
飲む者に不死を与えるとされるとされ、
乳海攪拌(にゅうかいかくはん)によって
醸造された飲み物なのだ。
その乳海攪拌というのは
ヒンドゥー教における天地創造神話で……、

なんて、この辺でやめておこう。
ナンノコッチャ、理解不能だからだ。

しかし、こういう話が
いかにも好きそうな人びとが、
あの頃の大口さん(大口広司)の
周りには山ほどいたのである。

………………………………

´92年頃だろうか、
行き先もわからないままに
マネージメント役を引き受けたボクは、
とりあえず大口さんにくっついて
地域をパトロールしていたのだが、

ある日、

「俺たちのホームグラウンドができそうだぜ」

って、一軒の建築事務所に
連れて行かれたのだ。

そこが、『アムリタ』のオーナー、
さんぺいさんのオフィスだった。

さんぺいさんは建築士なのか、
店舗デザイナーなのか、
インテリアデザイナーなのか、
はたまたそれら全てなのか、
明確には解らないのだが、
初めて行ったオフィスには
ドラフター(製図台)が立ち並び、
いかにもという雰囲気であった。

設計デザインに携わった物件は数知れず、
当時は「アレもそーなんですかぁ」
なんて、さんぺいさんのお仕事に
感心した覚えがあるのだが、
その内容が今では
すっぽりと抜け落ちてて
な〜んも覚えていない。

ただ、さんぺいさんと
会ったあのときは、
そのオフィスを閉める
ジャストなタイミングだったのだと思う。

それが、バブル崩壊のせいなのか、
何かの事情があったのかは
これまた覚えてないのだが、
直近の仕事で
設計デザインをしていた
某店舗がダメになって、
たくさんの輸入したインテリアが
宙に浮いているという話だった。

「そこでだ、ちょっと見てくれよ」

そう言ってさんぺいさんが、
オフィスの奥隣りにある扉を開けた。
すると、ソコは暗くがらーんとした
殺風景な倉庫になっていたのだ。

「ココはあるアパレル会社の倉庫になっていたんだけどね、事情があってそこが手放したんだ。俺は此処で店をやろうと思ってるんだ」

そう言って、さんぺいさんは
人懐っこい笑顔を向けた。

ここが、後に
『アムリタ』になるのである。

行き場のないヨーロッパの
テーブルや椅子やインテリアも、
すっぽりとこの倉庫(アムリタ)に
収まるという仕掛けなのだ。

しかし、フラワーチルドレンの皆様は、
まことに精神力がストロングだ。
何か下手を打っても、
ヘコまずに攻めようとするエナジーは、
一体どこから湧いてくるのだろう。

大口さんにしてもそうだ。
自らの経済の不協和音に逆らって
白金のマンションを引き払い、
駒込の一軒家に
引っ越したばかりであった。

その点、オイラたちは自慢じゃないが、
しらけ世代の申し子である。
『無気力・無関心・無責任の“三無主義”の成人式』と、
新聞の見出しを見たときには、
“なるほど”と、感心したほどだ。

「いよっ!さんぺい大将!ワタクシめの役目は?」

まるで条件反射のよーに、
ボクは、さんぺい先輩に問うてみた。

すると、教えてあったファックス番号に、
間もなくさんぺいさんからの
意向が伝えられることになる。
(まだまだ、携帯は現実的ではなかった時代だったのです)

“ビンテージなピンクフロイドの
お宝風ムービーを上映しながら
気の利いた客を集めたいので、
至急にヌードダンサーを調達して欲しい”

というお達しが来たのだ。

「ヌードダンサーですか?」

「そう、お洒落な西麻布のBARでカクテルを飲んでいたら、いきなりスクリーンにピンクフロイドが映し出されて、予告なく現れたヌードダンサーが、ひらひらと踊りながら客席を回っていくんだよ。面白いだろ?」

と言うのである。

あの頃のさんぺいさんたちには、
“東京の先端は俺たちが作っている”
という自負があったのだと思う。

だからアムリタも、
店の看板を出さなかったし、
店自体もビルの奥まったスペースにあり、
どこにあるかもわからないような
隠れ家のような存在だったのである。

「だから、まずは芸能人やメディアの人間を呼び込んで、彼らが気兼ねなく遊べる環境を作りたい」

というのが、さんぺいさんのビジョンだったのだ。

その考えは見事に当たった。
看板もない倉庫を改造した店は、
近くにあるテレ朝や
J-WAVEの人間をはじめ、
たくさんの秘密を共有したい業界人が集い、
ちょっと怪しい人間カクテルを
軽やかにシェイクし始めたからだ。

そこに大口さんのバンドも一役買った。
大口広司(Dr)
加部正義(Gu)
篠原信彦(Ky)
鈴木ミチアキ(Ba)
という基本のメンバーに
ゲストとしてかまやつひろしさんが入り、
必ず“No No Boy”を演った。

気がついたら、ごちゃごちゃの客席に、
布袋寅泰さん、ジョー山中さん、
キョンキョン(小泉今日子さん)、
藤井尚之さん等の顔ぶれを発見する。

チャージはなし、
投げ銭形式で帽子を回すのである。

これが、意外と難しい。
タイミングと雰囲気が必要だからだ。
妙に媚びたら台無しだし、
ヘラヘラと笑うのもなんか変だ。
かといって真面目に固く迫っても
嫌がられてしまう。

「コレでメンバーのギャラを払うんだから」

と大真面目に言う大口さんが、
ドラムから目配せをする
タイミングを見計らって
客のテーブルに帽子を回しに行く。

結局、何度やっても
上手くできた気分にはならなかったが、
帽子の中には万札も混じり、
さすがに神秘的な飲料(アムリタ)を
飲みに来た客たちである。
けっこう良い感じだったのだ。

そんな日々がどのくらい続いたのだろうか?

僕はアムリタで何杯くらい
神秘のカクテルを呑んだのだろうか?

カウンターに腰掛け、
見知らぬ客と
まるで顔見知りのように
世間話をした毎夜を思い出す。

そんなカウンター席から
テーブル席を眺めていると、
毎度のように酩酊した大口さんが、
どこかのテーブルでドラマチックな
展開になっているのだが、
そんなシーンを
ほろ酔い気分で傍観しているのが
格別に好きだった気がするのである。

そんなこんなで、20世紀末は
アムリタに随分とお世話になった。

しかし、徐々に行く回数が減っていき、
終いには西麻布の存在自体も
自分が遊んだ履歴の一部のようになった頃、
久し振りに深夜の霞町を通ったことがある。

その夜の僕は、
タクシーの運転をしていた。

六本木通りを渋谷方面から
西麻布の交差点に差し掛かったところで、
ちょっとハイカラなご婦人をお乗せした。

ちょうどアムリタの近くだったので、
昔話を振ってみると、
やはりあの頃の投げ銭帽子に
覚えのある一人だったのである。

「アムリタは数年前に無くなっちゃったわよ。というより、さんぺいちゃん自身が亡くなっちゃったんだけどね」

と言う話から、
何もかもが存在していないことを
思いがけず知るのだった。

………………………………

 

下北沢のタウンホールを借り切って、
アムリタや周りの仲間たちと
共同イベントを開いたことがある。

その日に会場に搬入するための飲料を
さんぺいさんと二人して運んでいた。

大粒の汗を流しながら、
何だか嬉しそうに笑う、
その時のさんぺいさんの顔が
脳裏に浮かぶ。

「ちょっと、休もうか」

そう言ってクーラーボックスを
置いたさんぺいさんが、
突然に生まれ故郷の話を始めた。

「俺は九州の田舎もんだからさ、東京を目指して出て来たんだよ。だから、東京には特別な想いがあるんだ。その想いは愉しい街じゃなくちゃやってられないってことなんだ。だから、東京の最先端っていうのは、いつも俺たちみたいな田舎もんが作ってるんだぜ」

“故郷に錦を飾る”ではないが、
人はそれぞれに様々な
バックボーンを抱えているのだろう。

それを満足させるためには、
人生はあまりにも短い。

六本木からも渋谷からも、
坂をちょうど下り切ったところにある
霧が霞がかった交差点。

そこには色んな想いが吹き溜まった、
たくさんの物語があるような気がする。

だから、霞町の方がいい。

僕は今だにそう言って、
誰にも通じなかったりするのである。

(1992年〜2009年)

PS/

先日観に行った
『地獄の季節』のベースシスト、
竜平さんからメールをもらい、
アムリタで大口さんと遊んでいたという
意外なエピソードを知りました。

懐かしくなり、
ついついアムリタを
思い出したと言う次第です。

ライヴといえば、
13日に『シクスシクス』の
レコ発ステージも観ました。
充分に良かったのだけれど、
CDを聴く限り、
こんなもんじゃないと想い、
“もっともっと気持ちを高ぶらさせてくれ”
と、今後を愉しみにする次第です。

梅雨の中、
どなた様も体調に気をつけて
傘をあらぬところに
置き忘れないよう、
毎日をお過ごしくださいませ。

ずっと、コロンビア戦の余韻に
浸っていたい夕暮れなのです。

2014012902210000

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