119『酒の話/北鎌倉の家』

酒の飲み方にもいろいろとある。
元来、僕は下戸だった。
コップにビール半分で頭痛がした。
一杯飲むと必ず死んだように
寝てしまうのだった。

それが、仕事の付き合いで
水で割ったウィスキーなら、
多少は飲めることに気がついた。
それが、ちょうど我が家に
冨士夫が転がり込んできたころ、
一緒に近くの由比ケ浜やら、
森戸海岸をパトロールして廻って、
生ビールを飲む訓練をしたのです。

しかも、僕は元来、
酒飲みがあまり好きではなかった。
父親が飲ん兵衛だったので、
酔っぱらいに対して
トラウマがあったのかも知れない。

親父は夕食時にトリスの
安ウィスキーをガンガンに飲む
典型的な晩酌ドランカーだった。

社会科の教師をしていたが、

「“音楽のせんせえ”にもなりたかったんだ」

なんてことを、
ほろ酔い気分で平然とのたまう。

押し入れから
得意のアコーディオンを持ち出しては、
真っ赤な茹でダコのような顔をして、
実に気持ち良さそうに
弾き歌いをするのだ。

それを聴かされる僕はまだ幼なかった。

茹でダコ本人は
子守唄のつもりなのだろうが、
ベッドの横で毎夜のように
アコーディオン・ライブを
やられる身にとっては、
たまったもんじゃない。

♪ ねむれぇ よいこよぉ〜 ♪

なんて、モーツァルトの子守唄を
埼玉弁まじりでやるのだが、
アコーディオンの音がでか過ぎて
眠れたもんじゃないのだ。
それに酒臭いったら
ありゃしないのである。

それでも、
そのうちデカイ音にもなれていき、
僕自身、成長していくにつれて、
耳元で音楽を流すと
深ーく落ちて行くように
眠れるようになるのだった。

人生で感じた最初の音楽家は
茹でダコ親父だったということなのか?!

気がつくと、
好むと好まざるとに関わらず、
酒の匂いとミュージックは、
僕自身にとって、
なんとも落ち着くアイテムに
なっていったのだった。

話を元に戻そうと思う。

僕が酒を飲めるようになったのは、
26歳のころである。
ウチに帰ると山口冨士夫先輩が
ビール瓶片手にくつろいでいる環境だった。

北鎌倉から鎌倉に向かう県道の
踏切を渡ったところに我が家があり、
裏山から庭へと降り注ぐ風は、
季節ごとの色を
様々な景色として連れて来るのだ。

そんな季節の風に
乗ったわけじゃなかろうが、
冨士夫とエミリが現れた1981年の夏は、
湘南の海の景色を求めるように
様々な人間模様が
我が家に降り注いでくる。

気がつくと、
『チナ・キャッツ・トリップス・バンド(※1)』
のメンバーが居間の
ソファを占領していた。

男5人に女が2人、だっただろうか。
会社から帰ったら
普通に我が家でくつろいでいた。
皆さんにご挨拶をしながら
冨士夫に耳打ちをする。

「あの人たちは誰?」

「チナ・キャッツっていうバンドだよ」

勝手に仲間を呼んだ事で
コチラの顔色をうかがっているのか、
少しばかり歪んだ笑顔で冨士夫が答える。

海岸からは随分と離れていたが、
その夏の我が家は
すでに海の家と化していたのだ。

夜になると十数人に膨らんだ
我が家の夏家族たちは、
由比ケ浜で玩具屋の花火に興じた。
酔っぱらった冨士夫が、
機嫌の良い時にだけ
特別に披露する
『トンネル天国』を歌う。
それを聴きながら、
月明かりの湘南海岸を漂う
見知らぬ仲間たちの人影……。

あの夏は、
にわかに増えていく家族たちに
なんだか不条理な世界を感じ、
毎朝、会社に行く度に、
“このままウチに帰るのをやめようかしら”
なんて、子供っぽく
ふてくされたりもしたのだが、
改めて振り返ると、
あれはあれで、
かけがえのない時間と
景色だったような気がする。

特に冨士夫とは、
あの時間がとても深かったのだろう。
あれがあったから、
その後の驚愕なる人生ドラマの展開さえ
楽しむ事ができたのかも知れない。

山口冨士夫という人は、
ジキルとハイドみたいなところがあって、
その日になってみないと
どっちが出て来るのか
わからない不安定さがある。
仕事が絡んでいない飲み会などでは、
たいがいが穏やかな
ジキルなのであった。

注意しなければならないのは、
調子に乗って辛辣な事を言う輩が
混じっている酒席などである。

音楽好きな取り巻きには、
標本にしたいくらいに
こういったクセのある音楽通が
入り込んでいるものだ。
酒が入らなければ、
実に丁寧で良い人なのだが、
ひとたびアルコールを注入すると、
人が変わったように
調子こいた事を口走ったりするのである。

コチラとしては、

“来るぞ、くるぞ…”

っと構えてながら、

そのうち

「…の やろう!」

とか唸りながら
ハイドに変身した冨士夫が席を立ち、
その暴言者に向かって
飛んで行く瞬間を止めるのであった。

「…ぁに、すんだよぅ!トシ」

とか言って、
離せよ、っとか
冨士夫がジタバタしているところに、

どこに潜んでいたのか、
あさっての方向から
しのぶ(石丸しのぶ)が飛んで来て、
ソイツのアタマをパッカーン!っと、
実に見事に叩いていたりするのだ。

結局は、そーゆー輩は、
その場で誰かに叩かれる運命なのだが、
困ったことに叩いたほうは、
逆にエンジンがかかってしまい
収まりがつかなくなる。

その間違った興奮は周りに伝染していき、
しだいにロックなんだか暴力なんだか、
ミソもクソも一緒になり、
気がついたら冨士夫が椅子を振り上げ、
リョウ(川田良/フールズ)が、

「カウンターの棚にあるボトルを端から割りまくってたよ」

という話を、
当日のスタッフから
後になってから聞いたりする。

幸か不幸か、
僕はその現場にはいなかったのだ。
ライヴ機材を片付けて
とっとと帰ってしまったからである。

こういうロックシーンの裏話って、
何ともハチャメチャで面白い。
しかし、ソレはあくまでも
他人事としての出来事だ。

現実として身に降りかかると、
決して愉しくはない。

その現場となった新宿ロフトへは、
当然のごとく出入り禁止となった。

それどころか、
東京中のライブハウスから閉め出され、
クロコダイルだけが唯一かろうじて、
扉を開けてくれるという
状態になってしまったのだった。

「俺は、どこまでも冨士夫の味方だからさ」

クロコダイルの店長である西さんは、
そう言って僕らを泣かせてくれた。

さすがに西さんはミュージシャンである。
冨士夫に対する想いが
他とはひと味違っていたのだ。

僕が高校生のころ、
日比谷の野音なんかで観た『エム』は、
マイクスタンドをバーベルのように扱う
ヴォーカル・パフォーマンスが
けっこう印象深く残っているけれど、
腕を頭上まで振り上げて叩く
西さんの激しいドラミングにも
随分と興奮したもんである。
(西さんが次に入った『ファニー・カンパニー』も好きだったけどね)

後年、冨士夫が体調を崩して
苦しんでいるのを見かねて、

「自然の中で静養してみないか」

と、がんさん(クロコの亡きオーナー)が
作りかけていたリゾート村を
提供してくれたのも西さんである。

そのおかげで冨士夫は気力を取り戻し、
音楽活動を続けるための準備をするのだが、
どうしても酒だけはやめなかった。

「このままだと、ジョニー(ジョニー吉長)と同じことになっちまうから、とにかく酒だけはやめさせたほうがいい」

ジョニーさんは晩年、
その人生の最終節で
西さんを頼ったのだという。
その悔いある残像が、
まだ西さんの心に
へばりついているのだった。

冨士夫もやめる努力をするのだが、
断酒のための試みは、
まるでスゴロクのごとくであった。
何かのきっかけで、
すぐにふりだしに戻るのだ。

とにかく身体が痛いのである。
その状態は、
健康な者には計り知れなかった。

僕は親父を思い出した。
末期だからと、
病院から一時帰宅した親父が、
家に着くなり自分の部屋に入り、
数十分後には
茹でダコになって現れたの時の、
あの感じである。

隠し酒を呑んだ、
その親父の顔が
実に嬉しそうだったのだ。

それほどに酒が好きなら、
いいんじゃないかと思った、
あの時は……ほんとうに。

……………………………

毎日、うだるような暑さが続く。

北鎌倉に住んでいた頃だったら、
たまらずに由比ケ浜まで出向き、
ビールでも流し込んでいるのだろう。

去年の春だったか、
茅ヶ崎まで行く用事があり、
当時住んでいた
北鎌倉の一軒家の前を通った。

35年以上前の思い出の住処は、
それなりに貫禄がついていたが、
面影がたっぷりと残っていた。

家の前まで行くと、
現在の住人が現れたので、
何の気なしに挨拶をした。

「こんにちは、35年前にこの家に住んでいた者です」

と言うのも変だったが、
他に言いようもない。

すると30代から40代と
おぼしき住人の女性は、

「どちらからいらしたんですか?」

と好意的な返しをしてくれた。

「東京の練馬です」

「あらっ、私たち家族も練馬から越して来て、もうじき10年になるんです」

当然として
「縁があるんですねぇ」
という会話になり、
少しの間話し込み
家の写真を撮らせていただいた。

裏山から季節ごとに
様々な贈り物が降り注ぐこと。
ゲジゲジが多くて、
ソレだけが少し気になる生活であること。
などなど、
ほとんどが僕らのころと
同じ想いの生活をしていたのである。

「子供も成長するし、家も古くなっていくんですけど、この環境は手放せないんですよねぇ」

と笑顔で言う住人に、
突然にうかがった無粋を詫びて、
その場を立ち去った。

北鎌倉から鎌倉につながる県道は、
鶴岡八幡宮の参道から
海に向かって一直線の道路となり、
そのまま由比ケ浜の海岸まで伸びている。

そこをクルマで走りながら、
当時の事を思い出していた。

もし、あのとき、
親父が病気にならずに
あのまま北鎌倉に住んでいたら、
僕も10年という単位で
此処で暮らしていたのだろうか?

東京に戻っていなかったら、
冨士夫の音楽活動とも
きっと関わっていなかっただろう。

人生の分岐点は、
いつだって後になって気づくものである。

1981年、冨士夫やエミリや
チナ・キャッツたちが
我が家に居着いたあの夏。

会社から帰宅しても落ち着かないし、
夜になってもなかなか眠れないので、
団体様が雑魚寝する家を抜け出し、
自転車を飛ばして由比ケ浜まで
夜の海を見に行ったりしたのだ。

誰も居ない海岸には、
真っ暗な風景に
波の音だけが響いていた。

浜辺を波打ち際まで進み、
じいっと海岸線を眺めていると、
次第に月明かりのなかで
目がなれていき、
濃いブルーグレイの
海と空の境目が判るようになっていく。

そうしながら、
ひたすらに海を眺めていた記憶がある。
まぁ、若かったけど、若いなりに、
なんとなく人生の機微を
感じていたのかも知れないな。

そして、
バックから缶ビールを取り出し、
プシュッ!とやり、
ゴクゴクっと、呑むのだ。

「ああ、うめぇ!」

下戸だった自分が嘘のように、
わざと声を出してうなった。

何よりも、そうすることが
嬉しかった気がする。

この時のビールが、
生涯でいちばん旨かったことを
憶えているのである。

(1981年〜2010年)

(※1)『チナ・キャッツ・トリップス・バンド』
1980年結成のサイケデリック・ライブバンド。国立周辺に生息する息の長いロックバンドで、今でもマイペースな活動を続けている。冨士夫とはたいへん仲が良かった。可笑しかったのは、チナ・キャッツ が『イカ天』に出演したとき、「お前ら、あんな番組に出て、何やってんだよぅ!?」と、冨士夫にからかわれていた。僕は彼らを通してグレイトフル・デッドを知ったというウカツ者である。

どなた様も台風にお気おつけくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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