074『SO WHAT/阿佐ヶ谷』トンネル天国/ザ・ダイナマイツ

阿佐ヶ谷にある中杉通りが気に入っている。
青梅街道から早稲田通りまでの並木道が、
このうえもなく気持ちいいからだ。

しかし、かつての阿佐ヶ谷駅は、
現在のような高架ではなく、
南北をさえぎる踏切があったらしい。
つまり、木漏れ日のある並木道は、
南側だけのものだったのだ。

すると、北口からの風景は
どうだったのだろう?
中杉通り好きとしては、
ちょっと気になるところである。

そんなこんなでいろいろと訊いてみた。
訊いた相手は岡(岡正夫)さんである。
岡さんとは、冨士夫の兄貴的な存在の人。
同じ聖友ホームの2つ年上で、
正夫だからマーちゃんと呼ばれていた。

「北口ロータリーから少し行くと、
斜め左に抜けて行く商店街があるのですが、
その道が昔はバス通りだったんです」

その商店街を北に向かって歩いてみた。
そして、緩やかな坂のあたりで
数十年前の風景を妄想してみるのだ。

遊び汚れた服を揺らせながら、
駆け出してくる数人のワルガキ共。
先頭でリーダー風を
吹かせているのがマーちゃん、
この辺りのガキ大将だったのだ。

「ホームでの規律は厳しいんです。
だからね、逆にいたずらになったり、
ワルくなったりもするんです」

マーちゃんは笑顔で当時を振り返った。

同じ道をもう少し北に向かって
幾すじかの横道を行き過ぎ、
ひょいっと左に曲がると、
そこに“聖友ホーム”が今も建っている。

冨士夫たちが育った児童養護施設である。
ホームを覗いてみると、
他の児童たちとは別格扱いで
可愛いがられていた冨士夫が心に映った。
そう、冨士夫はいつも優等生役だったのだ。
それが周りから望まれることだったから。

そのうち近所の空き地で
草野球なんかを始めるころになると、
コロコロと少し太った冨士夫が現れる。
運動神経が抜群に良かった冨士夫は、
大人顔負けのホームランを
そこでかっ飛ばしていたというのだ。

ジミー(高橋ジミー)は、そんな頃からの仲間。
清瀬から聖友ホームに移って来たのは、
多感な11歳の時だ。
冨士夫より1学年下だったジミーは、
ふてくされた暴れん坊で
どうしようもないタイプだった。

「俺とは違って、冨士夫は純粋だったんだ。
だからホームではバリケードを張ってた。
ワルたちに感化されないようにってね。
俺なんか冨士夫をワルくさせる張本人だって、
よく叱られたよ(笑)」

そう言って屈託なく笑うジミーは、
冨士夫がダイナマイツになっていく過程を、
いちばん近くで見ていた弟のような存在だ。

聖友ホームのある路地に戻ってみよう。
狭い道を挟んだ向かいに、
通称“オケラ長屋”という集合住宅があった。
そこには大陸からの引き上げ者や、
何やらワケアリの家族が暮らしていたという。
そんな、昭和のひとコマのような
情感溢れるスペースなのだが、
此処から、あの“ダイナマイツ”が生まれるのだ。

冨士夫が中学生にもなると、
オケラ長屋に住む同級生の吉田くんが、
路地を渡って聖友ホームに
入って行くのが見える。
部外者はホームへの出入り禁止なのだが、
吉田くんだけは特別だった。
中学のクリスマス会で
バンド演奏にチャレンジするのだ。
吉田くんはギター部で
冨士夫とはすこぶる仲が良い。
練習をするためにホームの2階に
出向いていたのだった。

やがて、遊びで始めたギターやバンドに火がつき、
冨士夫はオケラ長屋に住むことになる。
なんてったって、ダイナマイツのメンバーは、
全員がオケラ長屋の住民だったのだ。

冨士夫とは2つ年上の瀬川くんがリーダー。
(瀬川洋18歳/ヴォーカル・ギター)
3つ年上の野村くん(野村光朗19歳/ドラムス)
同級生の吉田くん(吉田博16歳/ベース)
そして、冨士夫(16歳ヴォーカル・ギター)。

“ダイナマイツ”のもうひとりのメンバー、
大木くん(大木啓造/ギター)はまだいなかった。
最初は“ オケラ長屋の4人”でスタートしたのである。
しかも、冨士夫が住んだのは、
瀬川くン家にある納戸代わりの三畳間であった。

「どっちのみそ汁が旨いかで、
朝っぱらから瀬川くんと吉田くんの
母親同士が口喧嘩してるんだ。
そんな環境だったよ(笑)」

後に、冨士夫が懐かしそうに
そう語っていたのを思い出す。

´89年の冬、その頃の話を聞くために
当時の瀬川くんの家にお邪魔した。
秋刀魚をつまみに一杯やりながらの
インタビューだったのを憶えている。

「てめぇ、こんにゃろ、バカヤロ」

を混じえて喋るのが阿佐ヶ谷弁なんだって、
冨士夫に教わったことがあった。
“ 正直、嘘だろ? ”って思っていたら、
酒も入り、興が乗ってくると、
瀬川くんがその見本を見せ始めた。

「お前、知ってるか?
こんにゃろ、バカヤロ」

ってな調子なのだ。
ほんとうだ、コレを混ぜると何だか調子イイ。
ポンポンと当時のエピソードに弾みがついてくる。
瀬川くんのダイナマイツ物語は愉しかった。
気がつくと時間も忘れて、
何時間も腹を抱えて笑っていた。
それほどまでに、滅多にない
阿佐ヶ谷のよもヤバ話だったのだ。

…………………………………………

1990年4月16日『SO WHAT』を入稿した。

実際にこの自伝本が発売になるのは、
冨士夫の生まれ月でもある同年8月なのだが、
この前年の冬あたりから、
ずぅ〜っと、内容をまとめていたのだ。

まずは地元・阿佐ヶ谷のエピソードとして、
冨士夫が育った聖友ホームからは、
マーちゃん(岡正夫さん)と、
ジミー(高橋ジミー)に。
そして、ダイナマイツを代表して、
瀬川くん(瀬川洋)にインタビューしたのである。

…………………………………………

阿佐ヶ谷にある中杉通りに戻ってみよう。
特にこれからが良い季節になってくるのだ。
春先から若葉が芽吹き始め、
夏のこんもりとした緑の景色へと
移り変わっていくころ。
そのキラキラした木漏れ日の中を、
クルマで抜けるのが気持ちいいのである。

3年前になるだろうか。
その年の夏の終わり頃、
僕はタクシーに乗っていた。
客ではない、運転していたのである。

中杉通りの西友の前にさしかかったころ、
女性が手を上げたので停めると、

「もうひとりいるから待って」と言う。

見ると、歩道のガードレールにもたれて、
大柄な男性が酩酊状態で揺れていた。
こういうとき、
どんなタクシーの運ちゃんでも、
必ず “ まずいぞ…!  ”と、
心をザワつかせるものだ。

案の定、この大男は
千鳥足もおぼつかないままに、
タクシーに乗り込むと、

「運ちゃん、南荻窪まで1分で!」とか言う。

冗談のつもりなのだろうが、
その風体とドスの利いた口調のせいで、
コチラは脅されているとしか思えない。

「お客さん、1分じゃ無理…」
と言うコチラの言葉に重ねて、

「ンなの、わかってるよ、こんにゃろ、バカヤロ」
と、大男が声を張った。

おや、何だか懐かしい響きに思わず反応した。

「お客さん、阿佐ヶ谷が地元ですか?」

そう聞くと、

「ほーだけど、運ちゃんは何処さ?」

なんて会話になったところで、

「運転手さん、ココで一回停めて」
って女性客が言い出した。

荻窪駅前の北口にある交番の横であった。
駅ビルで買ってきたいものがあるのだと言う。
少し停車して待っててくれということなので、
交番の斜め前に停車することにしたのだ。

そそくさと女性が買い物に行くとき、
一緒に大男もオモテに出たのだが、
なかなかクルマの中に戻って来ない。
“ どうしたのか? ” と見ていると、
真っ昼間の青梅街道沿いの歩道に向かって、
“ じ ょ 〜 っ ”と、立ち小便を始めたのだ。
歩道を行き交う人々がビックリすると共に、
一瞬にしてなかったことしているのが解った。

子供のころ、
ウチの前に牧場があったのだが、
そこの牛が小便する姿によく似ていた。
「ヤツは牛だったのか?!」
交番のほうを振り返ってみたが、
お巡りさんたちにも、
大男が牛に見えていたのだろう。
コチラに気がつきながらも
見て見ぬ振りをしている。

白日夢とはこ〜ゆ〜ことなのか?
こんなきったない非現実体験もあるんだな、
なんて思っていたら、

「ところで、運ちゃんの地元は何処だって?」

なんて、いつの間にか
戻って来ていた大男が訊いてくる。

「石神井なんです」なんて言うと、
「おぉっ!懐かしい」なんて雄叫びながら、
若い頃、パチンコ屋の上の白鳥ってサテンで、
何とか組の誰々を絞めたとか、
まるで鶏小屋のような話になった。

言葉の合間に入る、“こんにゃろ、バカヤロ ”
があまりにも瀬川くん風なので、
思い切って、
「おいくつなんですか?」と訊いてみた。

すると、
「昭和24年生まれだよ、バカヤロ」と言う。

昭和24年?! それじゃ、ってんで、
試しに、ほんとに試しに訊いてみた。

「東原中学ですか?」

「ほ〜だよ、何で知ってんだ?こんにゃろ」
という返事だ。

「吉田さんてご存知ですか?」
(何で、冨士夫じゃなくて吉田くんなんだ?
って、心の中で思ったのを憶えている)

「吉田ぁ? よ〜く知ってるけどぉ?」

大男がそう言って、少し前のめりになったとき、

「それじゃあ、冨士夫は?」

「デーナマイツだろ〜が! お前、いったい何者なんだ!?」

大男が世にもどでかい声を張り上げた!

まさに同級生だったのだ。
しかもダイナマイツの解散コンサートにも
行ったほどの仲だと言う。
間もなく戻って来た彼女に、

「コイツは俺のマブダチなんだぜ、このやろ」

とか言って、

「いつから? なんで? なにがあった?」

とか訊かれているうちに南荻窪に着いてしまった。

もう一度ゆっくりと話を聞きたいと思ったので、
名刺を彼女の方に渡して終了したのだが、
ものの1時間ですぐまた、
「さっきの場所まで迎えに来て欲しい」
という連絡をもらった。

ちょうど、高円寺の
阿波踊りの日だったので、
そこまで乗せて行って欲しい、
ということだった。

「阿波踊りに突っ込んでいいよ、こんにゃろ」

というご要望を丁寧にお断りして、
五日市街道と青梅街道の交差点で、

「今度、いろいろとお話を聞かせてください。
ほんとうに連絡待ってますね」

と、二人を降ろしたのである。

降り際に大男が、
半身をドアの外に乗り出しながら、

「ありがとな!」

とデカい手で握手を求めてきた。

「こちらこそ」

がっしりと握り合う
指の感触に違和感があった。
…指が欠けている。
だけど、分厚く温かい手だ。
そう思って笑顔で返したのを憶えている。

「阿佐ヶ谷に住んでる仲間も、
今では、この人だけになっちゃったからねぇ」
付き添っていた女性の、
ふっと、もらした言葉を思い出す。

あれから、ずぅ〜っと、
僕は大男からの連絡を待っているのだ。

「こんにゃろ、バカヤロ」を肴に、
中杉通りで呑み明かしたいから……。

(その昔〜19904月〜3年前)

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