094『ビショップのリゾート』resort(山口冨士夫&加部正義) trailer

ビショップは、ドラマーである。
冨士夫とはかつて、
2つのバンドで共に活動していた。
『ZOON』と『リゾート』だ。

残暑なのか何なのか、
さっぱりわからない9月の雨模様の夕暮れ。
小田急線『成城学園』の改札口で
ビショップと会った。

初対面なのだ。
だから、本来は“ビショップさん”なのだが、
さんづけだと、何だか調子がでないので、
ビショップと、呼びすてにさせて頂きます。

初めて会うビショップさん、
いや、ビショップは、
想っていたよりもずっと若かった。
見た目もそうだが、
歳も冨士夫より3つほど若い。
それなのに、九州は博多の
ロック創世記に関わっていたという話だ。

サンハウスに始まる、
いわゆる“メンタイロック”のシーンもそうだが、
関西方面で目立っていた、
ウェスト・ロード・ブルースバンドでも、
激しく叩いていたようなのだ。

京都での村八分のシーンも熟知し、
東京は高円寺を中心に、
70年代の残像を身にまとっている
ような人なのだ。

終いには海向こうを放浪し、
随分と長い時間をかけて、
世界中を廻ったようだが、
そのグローバルなる体験は
また次の機会に語ってもらうとして、
今回は、その中のほんの1点、
1976年の渋谷に
想いを込めてもらうことにした。

『ジニーのリゾート』に続く、
リゾートのメンバー2人目の登場である。

しっとりと珈琲でも飲みながら、
40年前の渋谷から
話を始めてもらうことにしたのである。

…………………………………………

「リゾートってバンドは、
冨士夫と加部くんだよね。
2人の発想からできたバンドだよ。
俺は、その調整役っていうか、
まとめ役って感じになるのかな?
バンドの発想を実現すべく
動いたって感じだったね」

冨士夫からは違う話を聞いていた。
リゾートは、ハナっからバンドのネーミングや
ライブ・スケジュールが決まっていて、
そこに冨士夫が乗っかっただけという、
『山口冨士夫のリゾート話』。

「そうか、勝手にバンドを組まれちゃったんだぁ」

な〜んて、冨士夫の話に
相づちを打ったもんである。
冨士夫を利用しようとする輩が、
当時からごまんといたんだな。
僕は、そんな風に解釈していたのだ。

「それは、ないなぁ」

珈琲を飲みながら
ビショップは静かに笑った。

「冨士夫と加部くんの
発想であることは確かだよ。
まぁ、端から見りゃあ、
まとめ役の俺が作ったみたいに
見えるのかも知れないけどね。
“ベースはジニーでいこう”って、
冨士夫は決めてたみたいだし。
実は、レコーディングの話も
いきなりあったんだよね。
バンドを作るって話になったとたんにさ。
でも、ライブとかやって
カタチにしてから音を録ろうってね、
そういうことになった。
当たり前の話なんだけど」

そこで岩田鉄太郎の登場とあいなるわけだ。
当時、ビショップは岩田鉄太郎と共同で
公園通りにあった公団の部屋を借りていた。

「岩田鉄太郎とは、
たぶん俺が一番付き合いが
長かったんだと思うんだよね。
渋谷の公園通りを上がったところにさ、
一緒に公団を借りてたからね、
そこで鉄太郎と共同生活をしてたんだ。
場所が場所だけに
いろんな奴が来たよね、
それこそチャー坊まで来てたよ。
ほんと、様々な奴が来た。
坂を下ってすぐのところに
『ジャンジャン』があったからさ、
楽器運んで演奏するには
ちょうど良かったんだ。
よく楽器を運んだよ、
今となっては、それも懐かしい思い出だね」

鉄太郎は絵描きだったという。
それでいて、音楽にも興味があり、
ビショップたちのマネージメント
みたいなこともしていた。

「自分でもバンド持ってたしね、鉄太郎は。
高円寺の若い衆集めて、何かとやってたよ。
あの頃は、レックたちが3/3をやってる頃で、
彼らの録音もしたんじゃなかったかなぁ?
鉄太郎はプロデュースみたいな役割でね。

他に、誠っちゃんの『シーナ&ロケッツ』にも、
何かと関わっているはずだよ。
鉄太郎は業界に顔が広かったから、
いろいろと協力してたんじゃないかなぁ」

当時は、渋谷に屋根裏ができた頃だった。
そこに集まる若者たちの
新たなるシーンを題材にして、
フィルムを廻していた
NHKの某ディレクターが、
リゾートにも寄ってきた。

「NHKのディレクターだったのかな?
その人がよく俺たちのところにも来ててね。
“今度、リゾートってバンドをやるんだけど”
って言ったら、
NHKのスタジオをリハに使ってもいいって言うんだ。
ゆるい時代だよね。
週に1回のペースでスタジオを借りたよ。
後にも先にも俺たちだけじゃない!?
何の関係もなしで、
NHKのスタジオで音出していた
ロックバンドってさ(笑)。
3週くらいやったかなぁ。
だけど、音がデカすぎたね。
下のスタジオの照明が揺れるんだって言うんだ。
クレームがきて、結局ダメになっちゃた(笑)。
変わった人がいるよね、NHKって。
まぁ、話のネタにするなら、
NHKのスタジオを使ってリハをした
最初で最後のバンドって感じだな、リゾートは」

渋谷に屋根裏ができたのは1975年。
RCのブレークにより、
屋根裏が全国に知れるのは´80年だ。
ジニーの言っていた
“最先端なのにゆったりとしている”
渋谷の街が汲み取れるエピソードである。

「ところで、加部さんとは知り合いだったんですか?」

失礼ながら、基本的な問いかけをしてみた。

「そうだよ。
彼がカップス(ゴールデン・カップス)をやめてから、
幾つか一緒にバンドを組んだりしていたんだ。
あの時はなんだったかな?
確か、ジッパーっていうバンドだったかな?(笑)
その音源もどこかにあると思うんだよね。
そのジッパーをやっている最中に
リゾート話になったんだよね。
冨士夫と加部くんが一緒にやる、
って言い出した。
困ったなって思ったよ。
まぁ、悩んでも仕方ないからさ、
思い切って解散しちゃった、ジッパーは(笑)。
それで、ちょっと間をおいて、
リゾートを作ったってわけ」

むむっ!実に計画的ではないか。
冨士夫の言う“突然にできたバンド”
なんかじゃないってわけだ。

ビショップは
『ひまつぶし』あとの『ZOON』で、
冨士夫とも懇意にしていた。
まさに二人にかかる橋である。
冨士夫と加部さんの間に
ピッタリハマってしまったのだった。

「だけど、リゾートってバンドをさ、いざ、始めるとね、
冨士夫も加部くんも、最初は肩肘張ってるのさ。
なかなかお互いに馴染まない。
だから、このバンドは成立するのかな?
って思ったりしたよね。
まして、加部くんはベースじゃなく、
ギターを弾いてたからね。

(加部さんが、もともとがギタリストであることは周知の事実である)
冨士夫とは、互いに打ち消し合うんじゃないか
と思ったりもしたんだ。
でもさ、加部くんのギターが
これがまた良いんだ。
ちょっと、そこらに例えようが
無いような変わった感じ。
そこに冨士夫の固いソリッドな
感じが絡んでくる。
そのアンサンブルが素晴らしいんだよね」

そこまで一気に話すと、
ビショップは珈琲を飲み干し、
ふっと、一息入れた。

「でも、そう思えるところまで行くのが、
正直言って大変だったんだよ」

まるでプロデューサーのごときである。
当時の情景が目に浮かぶようだ。
寡黙に黙々とギターを弾く加部さんに、
アレコレと気を使いながらも
自我を主張する冨士夫がいる。
きっと、ジニーはマイペースに、
デビッド・ボーイのような雰囲気で、
ベースと絡んでいたのだろう。
彼は常にファッションのほうが優先するのだ。
その中で右往左往するビショップが、
バンドの現実を一手に背負っていた。

「冨士夫はヴォーカルなんだから、
それをメインでやればいいって言ったんだよ。
でも、そうもいかない。
ギタリストだからね、結局はそっちにいっちゃう。
この二人が果たして成立するのかどうか、
少しばかり時間をかけて
やってみなきゃわからなかったわけなんだ。
まぁ、結果的になんとか上手くいって、
面白いツインギターになったよね。
聴いてみたかい?
なんだか、とっても良いだろ!?
今、聴いても全然イケテルよね」

実際に、今回CDとして世に出た
リゾートのライヴアルバムは、
パレス座(渋谷にあった映画館)の
ステージでの音源も含まれている。

「CDになった音が、
実際のイメージに合ってるんだよ。
会場で音が廻る感じが、同じなんだよね。
割と迫力のあるかたちで録れてるしね」

「ジニーが“満杯の客だった”
って言ってたけど、
実際にはどうだったんですか?」

ジニーが言っていたことを、
ビショップにも確かめてみたかったのだ。
重ねて聞くことで、より臨場感が沸いてくる。

「会場の雰囲気は良かったよ。
座席は客で埋まってた。
俺たちの演奏に圧倒されてたどうかは
わからないけどさ、
騒ぐでもなく、みんな観ていたな。
まぁ、冨士夫なんかの演奏を観ると、
それに魅入っちゃうっていうかさ、
そんな感じだったんじゃないかな。
とにかく、ダークサイドだからね、冨士夫は。
そこらのロッカーみたいに、
騒がれる存在じゃないだろ(笑)」

そんな感じは『タンブリングス』でも憶えがある。
圧倒的な演奏をした後でも、
曲終わりの拍手さえないのだ。
それは、演奏がどうのこうのではなくて、
やはり魅入ってしまうからだろう。

「俺が知ったり付き合ったりした中では、
冨士夫ほどのロッカーはいないよ。
生まれも育ちもそうなんだけど、
ストレートなんだよね、性格が。
俺は半年間もの間、
冨士夫と共同生活したからわかるんだけどさ、
モノの見方がまっすぐなんだよ。
正面からしか見ないからね、
何かと現実がややこしくなったりするんだ。
でも、その積み重ねが
冨士夫を作ってるんだよな。
いろんな経験をして、
人間不信になったり、
頑固になったりして、
それはそれでストレートなダークサイドに
拍車をかけたってわけさ」

そう言って、ビショップは、
コチラにも問いかけてくる。

「それで、冨士夫はどうだった?
音楽も何もやってない時は、
このうえもなく良い奴だっただろ?」

コチラがうなずくと、
それを確認したかのように言葉を続けた。

「本来の冨士夫は、
ストレートな慎重派で、何の問題も無い。
しかし、ひとたび音を出し始めるとね、
ヒーロー扱いする奴らが
ごまんと集まってくるんだ。
そこら辺で、ストレートな感覚が
180度ひっくり返っちゃうんだよな。
あの変身には誰しもが驚くよね。
俺も最初はビックリしたよ(笑)」

冨士夫を想うと、
誰しもがそんな二面性を想い浮かべる。
良い想いもしてきたけど、
きっと、その倍くらい
嫌な想いをしてきたのかも知れない。

「でも、そんな逆境から立ち上がったロッカーとしては、
俺が知る限りでは冨士夫がいちばんなんだ。
あんな奴、他にいないもん。
だから、本当はもっと脚光を浴びて欲しかったと思うよね」

ビショップと冨士夫の最後の風景を訊いてみた。
いつまで付き合っていたのだろうか?

「リゾートで終わりだよ。
俺も別の方向に歩き出しちゃったからね。
でもさ、リゾートが終わってから、
6〜7年たった頃に、渋谷のパルコ前で
冨士夫にバッタリと会ったことがあるんだ。

「こんなところで何やってんの?」って、
お茶を飲んだんだよ。

とりとめもない世間話をして、
「いま、何やってんの?」って訊いたらさ、
「何もやってない」って。

おだやかな冨士夫だった。

でも、「もうすぐレコーディングをするんだ」とか、
言ってたかな。
その時が冨士夫に会った最後なんだなぁ」

きっと、そのレコーディングは、
『RIDE ON!』である。
だから、1983年の渋谷なのだ。

人の歴史をフカンに見ると面白い。
初対面のビショップとは、
冨士夫を通じて、
実はそこでつながっていたのだ。

思い起こせば、その頃からなのだ。

僕が冨士夫の調整役になったのは。

(1976年〜83年)

PS/

台風一過の秋晴れのもと、
皆様はどうお過ごしでしょうか。
9月も中頃を過ぎると、
めっきりと秋模様が見えてきて、
早くも年末の事を考えてしまいますね。

な〜んて、気が早過ぎるか。
ところで、年末というと
今年も『よもヤバ話』のイベントを
行おうと思っております。

今年は下北沢のガーデンにて、
12月8日金曜/
ジョン・レノンの命日(偶然です)
に行います。

内容の詳細については、
次回のブログから
随時発表させていただきます。

それでは、どなた様も
お身体に気をつけてお過ごしください。

良い 秋 を。

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